新着記事一覧 | JINさんの陽蜂農遠日記 - 楽天ブログ (2025)

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  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:4日目(6/22-2)           沈阳(瀋陽):瀋陽故宮(その1) 今日は7月16日、私の69歳の誕生日。昔で言えば『古希』。昔は『古希』の祝いは、数え年で行うのがしきたりでしたが、最近では数え年のなじみが薄くなっていることから、満年齢でお祝いする人が増えて来ているのです。因みに・『還暦』60 : 数え年 61歳のこと。干支(えと)が60年たつと一回りして、元に帰るから。・『古希』70 :人生70歳まで生きることは古来から稀(希)な事であるという意味から。・『喜寿』77 :「喜」の字の草書体「㐂」が「七十七」と分解できるところから。・『傘寿』80 :「傘」の略字体の「仐」が「八十」と分解できることから。・『米寿』88 :「米」の字が八十八に分解できることから。・『卒寿』90 :「卒」の略字体の「卆」が「九十」と分解できるところから。・『白寿』99 :「百」の字から「一」をとると「白」の字になるところから。・『紀寿』100:「紀」の字が一世紀の「紀」に由来するから。「百寿」ともいう。  【https://www.ringbell.co.jp/giftconcierge/2201】より転載させていただきました。中国の代表的詩人、杜甫(とほ)の詩「曲江誌」の一節、『酒債尋常行處有 人生七十古来稀』「酒債(しゅさい)は尋常 行く処(ところ)に有り 人生七十 古来稀なり」(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。しかし七十年生きる人は古くから稀(まれ)である)に由来しています。もともとは『希』は『稀』の字だったのです。現代では、男女ともに平均寿命が伸びており、70歳まで生きることが当たり前になりましたが、当時は70歳を迎える人が少なかったため、この詩が生まれたのです。そして「還暦は赤」など、長寿祝いにはそれぞれテーマカラーがあります。そんな古希のテーマ色は「紫色」なのだと。今朝も、復習と学習の朝となりました。そして、長女はサクランボ、礼文島ウニを、長男はケーキ、そしてマレーシア土産のホワイトコーヒーを持って、孫を連れて家族で訪ねてくれました。------------------------------------------------------------------------------------------そして今日も『中国・東北地方7名所大周遊8日間』の続きです。『瀋陽故宮博物館』に向かって進む。故宮と言えば、昨年6月に訪ねた北京の天安門というくらい誰でも知っている北京故宮ですが、恥ずかしながら、今回この地を旅するまで、瀋陽の故宮についてはほとんど知らなかったのです。満洲族は、遼寧省東部の女真族が主となって女真族を統一、”文殊”菩薩の満洲語から名を取って”満洲”を名のった。また、元の後裔から大汗の印璽を受けて蒙古族の大汗も兼ね一大勢力となった。初代ヌルハチは、(後)金国としたが、二代ホンタイジが大清国に改めた。この二代の都が盛京(瀋陽)で、宮殿が瀋陽故宮だ。北京遷都後も盛京は満洲族の故郷として尊崇された為、文化財として今に伝承されているのだと。沉阳故宮导游全景图(瀋陽故宮導遊(ガイド)全景図)。瀋陽故宮は、図のように3つの区画に分かれる。右から東路、中路、西路の順に建てられた。何故か東路は他と中軸線が少し傾いているのだと。東路は、八角大の政殿と十王亭(左右翼王亭と八騎亭)が整然と並び初代ヌルハチが”大典”を挙行した。満洲族の八騎制度と漢族の建築技術を反映した独特の広場だ。中路は、東路の2年後に建て始めたもので、皇帝の政治活動や宴会、后妃の居住空間になる。南北中軸線に正門となる大清門、崇政殿、鳳凰楼、清寧宮が並ぶが、鳳凰楼からは、3.8m高くなり、シャーマン祭祀も見られる。西区はオンドルなどの満洲族の建築様式のある。東南の角には清朝の祖先を祭る太廟がある。西路は、劇台、嘉蔭堂、文溯閣、仰熙斎からなり、150年後の皇帝東巡の際に、四庫全書を収める場所として建てられた。入口は、西路からになる。地下鉄1号線懐遠門駅を降り、東に向かい城門を模した門(懐遠門)をくぐると瀋陽路に出る。駅から0.5km程で故宮に着く。中路のハズレには武功坊と文徳坊。入口両脇にあった巨大な石版彫刻。その間には大きな連絡歩道が設けられ、両側には清朝2代の歴史絵巻が刻まれていた。右側。ラッパを吹く人物。左側。甲冑を纏い馬に乗りいざ出陣。王ホンタイジと皇后であろうか?舞う女性と称える随臣。これらの巨大な石版彫刻の内容について詳しい方がいらっしゃいましたらご教示賜りたく。『沈阳故宮』と書かれた扁額のある門の前には『多彩非遣美好沈河(多彩で斬新に?)』と書かれたボードが。瀋陽故宮博物院の入り口・瀋陽路の門。屋根瓦などは葺き替えられたようですが、木製の扁額や飾り板などは年代を感じさせてくれた。『文徳坊』と書かれた扁額。漢字の上下には満州語の表記が。ここにも『沈阳故宮』と書かれた扁額のある門。結婚するカップルが記念撮影中。満面の笑顔で。空には蛸の形の凧が浮かんでいた。そして同様な門が再び前方に。『沈阳故宮旅游服务部(瀋陽故宮旅遊服務所)』は瀋陽故宮観光案内所か。瀋陽故宮のマンホール。『太廟』正門。『太廟』は中国皇帝が皇室の祖先祭祀を行う場所。清朝では盛京(瀋陽)と北京の2箇所に設けられている。瀋陽故宮の『太廟』は乾隆46年(1781)に撫近門(大東門)外から大清門東横に移築されたもの。現在はバリケードがあり非公開のようであった。『沈阳故宮博物館』が左手に。『奏乐亭(奏樂亭)』。日本の舞殿の如し。添乗員から入場チケットを貰い『大清門』から入る。南北中軸線に正門となる大清門は故宮への入り口で清代には午門とも呼ばれた。清の太宗天聡年間(1627~1635)に創建され、崇徳元年(1936)に正式に大清門と命名。文武百官や外国使節はここでハンタイジの出御を待ち、またホンタイジがここで臣下や外国使節に賞賜を与えるなど、多くの典礼がここで行われたと。『沈阳故宮博物館』の建築様式は崇政殿、清寧宮と同じく五間硬山式。外側の『沈阳故宮』の扁額は、戦後にかけられたもので、郭沫若の筆であると。門の左右には二匹の獅子が座っており、門を守護している。『大清門』と書かれた扁額。左は満州文字(満文)、右は漢文。『沈阳故宮博物館』前の広場。『清沈阳故宮』配置図。『全景図』。『沈阳故宮』案内。瀋陽故宮は、清朝の初代皇帝、太祖ヌルハチ(努爾哈斉)と2代皇帝、太宗ホンタイジ(皇太極)により建立された皇城。1625年に着工して1636年に完成しました。瀋陽故宮の総面積は約6万㎡あります。北京の「故宮」の12分の1の大きさではありますが、500以上の部屋を持つ70以上の建物が建ち並び、満州族の威厳と風格が感じられます。敷地内は大きく東、中、西路の3つに分かれています。入口を入ってすぐの東路正面に建つ大政殿は、かつて大典が行われていた場所です。黄色の瑠璃瓦の美しい八角二層のこの建物は、漢、満、蒙の3民族の建築的な特徴を兼ね備えた傑作といわれています。中路には故宮の中心となる建物が一直線に並んでいます。中央には玉座の置かれた崇政殿、その背後には三層の鳳凰楼、さらに奥には皇帝や皇后、皇族達が生活していた建物があります。盛大な宴会が催されていた鳳凰楼は故宮で最も高い建物で、楼上からは市内を一望できたといいます。皇帝の寝室だった清寧には、太宗ホンタイジが死去したという寝室が保存されています。西路には嘉陰堂、戯楼、歴代の重要書「四庫全書」を収めていた文溯閣などがあり、これらは北京遷都後に乾隆帝により建設されたものです。ヌルハチとホンタイジの宮殿であった故宮は、順治帝が都を北京に移した後も離宮として使用され、先祖の墓参りや東北地方巡回の際に皇帝が滞在していました。現在は瀋陽故宮博物館として公開され、建物内には優雅な家具、調度品や食器類が展示されています。大清門をくぐると正面に見えて来た『崇政殿』は瀋陽故宮の正殿。太宗ホンタイジはここで政治を行い、外国使節の朝見の儀式や饗宴もここで行われたと。天聡年間(1627~35)に完成、崇徳元年(1636)正式に『崇政殿』と命名された。北京への遷都後も、皇帝の東巡(東北への行幸)時にはここで政務や典礼を行った。『崇政殿』が現在の姿になったのは、乾隆十一年~十三年(1764~48)頃にかけて行われた『崇政殿』および宮殿中路の大規模な増改築の後であったと。『崇政殿』も硬山式と呼ばれる中国北方地区によく見られる建築様式で建てられているのだと。硬山式は日本建築の切妻造に近いが、左右の側壁が屋根の上端より少し高い位置まで延び、左右の軒先が外側へ張り出していない点が異なるのだと。『崇政殿』は間口が五間(柱4本、柱間に5つの空間)の五間硬山式で、大清門と清寧宮と共通の様式となっていると。屋根には他の建築物と同じく、黄色い瑠璃瓦を用い、緑の瑠璃瓦で縁取りされ、左右の隅棟には走獣が置かれていた。口を開いて水を吐き出している『鴟吻(しふん)』。大棟(屋頂)の左右両側にには『鴟吻』と呼ばれる神獣の像が置かれていた『鴟吻』は「龍生九子」、すなわち龍が生んだ九匹の子の一匹で古来、雨や水をもたらす神として崇拝されており、建物を火災から守る役割を担っていたと。そして龍の一族である『鴟吻』は、龍の化身たる中国皇帝が利用する建物にのみ置くことが許される高貴な装飾なのであると。また、大棟(屋頂)の左右両端は、側壁と屋根の前後の勾配の三面が交わる場所で、非常に隙間が出来やすいため、『鴟吻』の像を置くことによって密封し、雨漏りを防ぐという実用的な意味もあるのだと。尚、日本の「しゃちほこ」はこの『鴟吻』が変化したものらしいと。こちらは右側の『鴟吻』。左端にも『鴟吻(しふん)』が。左右の隅棟には走獣が置かれていた。入口左右の『斗拱(ときょう)』には首をもたげた龍の彫刻が色彩豊かに。中国皇帝のシンボル、龍のレリーフ像が柱に。上下2つに分けて焼成されていたが2頭であろうか。『崇政殿』正面。建物正面(南側)の軒下の柱は四角形の柱が用いられ、軒には斗栱(ときょう)と呼ばれる枡形の飾りが取り付けられていたが、これはチベットの仏教寺院によく見られる手法とのこと。入口左右の斗栱には、首をもたげた龍の彫刻が取り付けられていた。扁額の『崇政殿』。中央の『雲龍階石』。風化が進んで、ほとんど判別が付きませんが、『崇政殿』の石像のレリーフ。内部には玉座が置かれ、その両側には天空を舞う二匹の龍、後ろ側には金色の屏風があり威厳のある造り。玉座真上の天井には、『正大光明』の扁額が。ひときわ目を引く玉座の上に掲げられた『正大光明』の扁額は、清王朝第5代皇帝の雍正帝(ようせいてい、在位1722-1735)が考案した「儲位密建(ちょいみっけん)」の法で有名であると。彼は、後継者となる皇子の名を記した勅書を厳封した上で、この『正大光明』の扁額の裏に置き、自分の死後に皆で立ち会ってこれを開封し、次帝を立てるようにと定めた。皇太子が誰かをぎりぎりまで公開しないことにより、皇太子の堕落や、次帝をめぐるお家騒動を防止することを目的とした、実に巧みな制度であったと。右側から玉座を。『崇政殿』への階段を下りながら振り返って。『嘉量』貴重な品らしく、周りを鉄柵で囲ってあった。日本で例えれば、石燈籠の光景ですが、容積の原器とされる『嘉量』と呼ばれるもの。こちら『日晷(にっき)』は日時計。これらは、乾隆十一年~十三年(1746~48)頃行われた、崇政殿と宮殿中路(中央部)の増改築の際に置かれたものであると。宮殿正面に容器の原器と日時計が置かれている理由は、繰り返しになるが、これこそがまさに中華帝国と中国皇帝のシンボルだからであると。始皇帝が天下統一後に度量衡を統一したように、度量衡は古来から国家統一の象徴。つまり、国家の統一と皇帝の権威を象徴する重要な意味を持つのだと。麒麟?も触られて黒光り。                                                            ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・ 2019.07.16 コメント(0)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:4日目(6/22-1)          沈阳(瀋陽):早朝散歩~張氏帥府 4日目(6月22日)のこの日も早朝起床、そして我が部屋の窓からは快晴の街並みが。眼下に見えたのが『沈阳北站(瀋陽北駅)』そして駅前広場。時間は5:39。市名・『瀋陽』は、「瀋水ノ陽」の意味で、市内の南部を流れる渾河の古名・瀋水の北に位置することから由来するのだと。瀋陽市の常在人口は825万人、従来より東北地方の最大規模の都市であり、東北地方の経済・文化・交通および商業の中心地。ところで『瀋陽』がどうして『沈阳』になるのであろうか?陽➡阳は『勿』に似た部分が省略されていることは理解できるが、『瀋』➡『沈』は???今回の旅行中に学んだ簡体字の主なものは「貝」➡「贝」、「頁」➡「页」、「头」➡「頭」、「東」➡「东」、「風」➡「风」「幾」➡「几」、「農」➡「农」、「聖」➡「圣」、「亜」➡「亚」、「華」➡「华」「衛」➡「卫」、「車」➡「车」、「園」➡「园」、・・・・・等々枚挙に暇なし。なぜ簡体字ができたかというと、中国は日本とは違い識字率が低かったから。中国政府は、より多くの人に文字を普及させるため繁体字を簡単にした簡体字を導入したのだ。中国内陸部では簡体字のみが主に使われますが、正式文書など公式文ではしばしば繁体字が使われると。しかし、私はこの簡体字の採用には大いに??なのであるが。古い漢字には、漢字本来の中身・意味が表現されており、その漢字の成り立ちが解るのです。日本においても、戦後この「旧字体」が簡略されましたが、現在の中国ほど激しい簡略化ではないので、日本が「旧字体」の漢字の成り立ち、意味を引き継いで守っていくしかないのではと思っているのです。ホテル前そして東側方面のビル群。『沈阳北站(瀋陽北駅)』前の広場は、緑も豊かに。葉の色合いも意識した植栽であること間違いなし。駅裏にも高層ビル群が。こちらはマンションなのであろう。そしてこの日も6時過ぎにホテルを出て『沈阳北站(瀋陽北駅)』周辺の早朝散歩へ。『沈阳北站(瀋陽北駅)』を正面から。瀋陽北駅は、1986年11月に建設が始まり、1990年12月22日に完成。駅主体の面積は6万m2で、駅の部分は3階建てになっており、4個のエレベーターと7個の高架鉄橋があると。瀋陽北駅は、中国東北地域で一番大きい鉄道運輸駅で、毎日の列車数が多く、最高時で230以上の本数が運行していると。その為、瀋陽北駅は中国東北第一の駅と呼ばれているのだと。瀋陽北駅から至る都市は、北京、天津、上海、太原、広州、福州、ハルピン、長春、大連、唐山など様々な地域に運行しているのであった。駅前に通ずる『友好街』を『惠工广场(恵工広場)』に向かって歩く。『阳光百货(陽光百貨)』の高層ビル。ショッピングモールであるようだ。有料駐車場の文字は『一类收费泊位』と。中国の自動車保有台数は2億台を突破し、毎年の自動車販売台数は3000万台近くになり、毎年確実に増加していると。しかし、駐車場は大幅に不足しており、控えめに見積もっても5000万台以上の駐車場が不足していて、この数字はさらに増加する見込みだと。『惠工广场(恵工広場)』のロータリー・信号のない円形の交差点「ラウンドアバウト」。『惠工广场(恵工広場)』の『友好街』入口のモニュメント。多くのビルの前には対の獅子(ライオン)像が。東アジアから東南アジア、南アジアから中東、さらには西欧に至るまで、実にユーラシア全域に拡散したシンボルはこのライオンなのである。『惠工广场(恵工広場)』の南側。昨夜にビルの下まで訪ねた、中国の古代貨幣をモチーフにした『方圆大厦』ビルが前方右手に。こちらの獅子(ライオン)像は阿吽像であった。「阿吽」は仏教の呪文の一つで、その由来としては、インドのサンスクリット語で始まりの文字が「阿(あ)」、終わりの文字が「吽(うん)」となっており、「宇宙の初めから終わりまで」を示しているのだと。駅前のバスターミナル。『方圆大厦』ビル近くまで行く。そして駅前の地下道を潜り『沈阳北站(瀋陽北駅)』舎に向かう。地下道には様々な観光用ポスターが。『国门名山 丹東鳳凰山』遼寧省丹東市鳳城市にある名山。「箭眼」(チェンイェン)と呼ばれる最高点の海抜が836m。遼寧省の四大名山(他は千山、医巫閭山、薬山)のひとつ。丹東はこの日の翌日に訪ねる都市なのであった。花崗岩でできた連山の絶壁に張り付く歩道。巨大な吊橋も。そして吊橋の中にも階段が。旅友Sさんにもぜひ歩いて欲しい吊橋なのであったが・・・。そして『沈阳北站(瀋陽北駅)』構内へ。時刻表と空席状況が表示されていた。自動券売機。ネット予約のチケットもこの機械で受け取るのであろう。こちらは有人の日本風・みどりの窓口。多くの中国人がきちんと列を作っていたが、中国人同士では横入りはないのであろうか?そしてその隣には直ぐに安全検査のゲートが。我々切符を持たないものは中には全く入れない仕組み。『实名验证(実名験証)』の文字も。中国には「中国大陆火车票实名制」と言われる制度があり、いわゆる和谐号などの鉄道(G、C、Dの頭文字を持つ便)に乗る際に実名による登録が必要になるという制度であるのだと。一説には「鉄道事故が起きた時に誰が死んだか分からんから、すぐに分かるように全員登録制にしている」という、まことしやかな噂もあるのだと。安全検査を通過すると、エスカレーターで待合室(スペース)に上がれるようであった。X線検査装置に荷物を入れる乗客たち。新幹線のX線検査は金属類については飛行機の国際便より厳しいと感じたのであった。やはり飛行機と異なり、新幹線車内でトランクからでも取り出せるからなのであろうか?瀋陽北駅前の広場のオブジェ。鳳凰の姿であろうか、ここが人口約 825万人以上の省都の玄関前。広場一面のタイルが濡れていて雨が降ったが如く。しかし散水車と洗浄車が朝の清掃の真っ最中であった。散水車がゆっくりと水を出しながら、動いていた。回転ブラシが前方に2個ついた洗浄車。瀋陽北駅前の広場全面が洗浄対象、徹底的な清掃作業なのであった。日本では、最近散水車は偶に見るが、回転ブラシ洗浄車はほとんど見ないのではとも。札幌や函館で昔『ササラ電車』は見たことがあるが。そしてホテルに戻り朝食を取り、8:30にこの日の沈阳(瀋陽)市内観光のスタート。最初に『張氏帥府』の観光に向かう。車窓には『方圆大厦』ビルが再び見えた。早朝散歩とは逆ルートで『惠工街』を『惠工广场(恵工広場)』に向かう。バスの中から高層ビルを。『惠工广场(恵工広場)』ロータリーを走る。時間は8:37。『中国銀监会沈阳干部培訓中心』ビル。『性の体験』とはどの様な看板???『広宜街』。『辽宇煤矿安全監察局』。『正阳街』を南に進む。『正阳街』の寺院の如き建物。道路の渋滞が既に始まっていた。『沈阳新恒基国际大厦』とその手前に復元された撫近門(大東門)も見えた。『趙一荻故居』。張学良が夫人の為に建設した住居。瀋陽の『張氏帥府』の大青楼の外観ここは張学良旧居張作霖と長男張学良の官邸兼旧邸宅。張氏帥府はまたの名を「大帥府」もしくは「小帥府」といい、遼寧省瀋陽市で有名な観光スポット。1914年に張作霖によって建てられた。その後も増築によって、主に大小の青楼と西院の紅楼、そして張四小姐楼から構成されている。それぞれの建築デザインは中国伝統建築やヨーロッパの建築など多種多様。全国優秀近代建築群とされ、1985年には瀋陽市人民政府に市の文物保護に指定された。張親子ここで政務を執り、諸外国の要人と会談。内部に入ると歴史の波に巻き込まれる親子の姿を垣間見えることができるのだと。しかしこの日は外観のみで、中に入ることは出来なかった。1918年から1922年までに建てたこの建物はローマ様式で、耐火煉瓦となっていると。張作霖が日本軍に爆殺されて瀕死の重傷を負ったとき、この建物に運ばれたと。歴史を感じさせる小路。チケットオフィス。『張氏師府』入口。戦時中まで「奉天」と呼ばれていた瀋陽の軍閥、張作霖とその息子で中国統一に大きな役割を果たした張学良親子が住んでいた邸宅跡。彼らはここで関東軍の要人や外国からの商人との面会、政務を行っていた。瀋陽故宮の近くの瀋陽路にある『張氏帥府』の入り口に立つ『张学良将军』像。『張学良』は中国の軍人・政治家。海城県(遼寧(りょうねい)省)の人。字(あざな)は漢卿(かんけい)。張作霖の長男。父の爆死後、日本の反対に抗して、国民政府のもとで全東北の実権を握ったが、満州事変によって下野。外遊後、内戦の停止、抗日救国を要求して蒋介石を監禁する西安事件を起こしたため、禁錮刑に処された。49年蒋介石の台湾逃亡に伴い張も連行され,90年まで自宅軟禁状態にあった。94年名誉回復,同年ハワイに移住した。20歳の時訪日したが、同年生まれで当時皇太子だった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたのだと。なるほど・・・・!!『沈阳故宮博物院』と書かれた門。張氏師府西院紅楼群 一号楼九・一八事件(満州事変)後の建築された西院の紅楼群は6棟に及ぶが瀋陽市文化局が使用しているようで公開はされていなかった。敷地の右側にあったのが『張氏師府西院紅楼群 六号楼』この八ッ菊紋に似た紋章は?美味しそうなブドウが露天で売られていた。                              ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・ 2019.07.15 コメント(0)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:3日目(6/21-6)           长春西站(長春西駅)~沈阳北站(瀋陽北駅)~ホテル バスは长春西站(長春西駅)に到着。ここから新幹線で沈阳(瀋陽)に向かうのであった。時間は13:11。バスを降り、トランクを転がして駅舎内に向かう旅友達。長春西駅構内。荷物のセキュリティーチェックに向かう。出発案内板。エスカレータで待合室に向かう。新幹線の出発時間は16:00、かなりの時間がありしばし待合室で。待合室の上にはレストランや喫茶店がありそうなので散策開始。駅前広場。明かり採りがあるが、地下は駐車場になっているのであろうか?その奥にはマンション群が拡がっていた。ここはタクシー等の待合場所。待合室の中には土産物屋も。コーヒーを飲める場所が1箇所あったが、専用カード保有者のみの会員制の喫茶店であったので入場出来なかった。線路が下に見えた。待合室の中にあったカラオケボックス。電話ボックスを大きくしたようなカラオケボックス、しかし2人が限界か。この日の瀋陽北駅(沉阳北站)までの私の切符。300kmの距離で約91.5元≒1500円。利用する便は北京行き16:00発の16両編成。そして漸く出発10分前の15:50前に改札開始。5番ホームで新幹線の到着を待つ。この新幹線の始発駅は『齐齐哈尔南(チチハル南』。齐齐哈尔南12:53発~ハルビン14:30~長春西16:00~瀋陽北17:27~北京22:22と約2000kmを約9時間30分で走っているのだ。新幹線D-30が定刻に入線し10号車の指定席に乗り込む。『长春绕城高速線』が下に。田園地帯がひたすら続く。『京哈高速』料金所。『四平東駅』を出る。山の上には風力発電が。『辽河』を渡る。『铁岭西站』を出る。『新开河』を渡る。そして瀋陽(沈阳)の街並みが見えて来た。『沈阳北站』に到着。乗降客の数は比較的少なかった。改札出口での切符確認はなし。駅の外に向かって進む。『沈阳北站』前に出る。2連泊のホテル『沈阳珀丽酒店』が駅前に見えた。ホテルに向かって徒歩で向かう。そして5分ほどでホテルに到着。現地添乗員王さんがチェックイン手続きを。ロビー。部屋の前の通路には一面に養生用の布が敷かれていた。絨毯のメンテ中だったのであろうか?しかし、もう少し汚れていないものを敷いて欲しかったのであったが。そして我々の部屋。時間は17:46。しばし休憩後は、バス似て夕食会場へ。街並みには高層ビルが林立。夕食は瀋陽料理の店『興隆軒』。餃子が人気の店と。店に入ると魚介類が。様々な魚も。この日は、この店の人気の餃子を楽しむ。焼餃子も。スープは味が薄かったが。そして水槽に泳ぐ生魚。店を出ると漸く暗くなり、時間は19:57。ホテルに戻り旅友とスーパーマーケットで瀋陽の大手スーパー「家楽福」(カルフール)を覗きに行く。カルフールは、フランス・パリ近郊ブローニュ=ビヤンクールにグループ本社を置き、世界各地にスーパーマーケットチェーンを展開する小売企業。「カルフール」とは、フランス語で交差点を意味する。このカルフールは以前、日本にもあったが、イオンに売却されたのでは?瀋陽北駅の近くにある有名なランドマークの建物『方圆大厦』は中国の古代貨幣をモチーフにした建物。吉野家もあった。果物売り場を除く。メロンが山積み。椰子の実であろうか?ドラゴンフルーツ。缶ビールのロング缶を4本そしてアメリカンチェリーを購入しホテルへ。『方圆大厦』のライトアップを楽しみながら。別の角度から。外見がとてもユニークであり、多くの企業に大変好まれている。日系企業も入ってるらしい。そしてホテルの部屋に戻る。部屋から窓越しに『沈阳北站』をズームで。時間は21:30前。そして缶ビールに片手にこの日は隣の部屋の旅友2名も誘って1.5時間ほどの反省会。                              ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・ 2019.07.14 コメント(0)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:3日目(6/21-5)          長春:横浜正金銀行旧址~長春西駅 『偽満州国皇宮博物館』を後にし、『南广场(南広場)』を通過し『胜利大街(勝利大街)』を進む。『横浜正金銀行旧址』。横浜正金銀行は旧東京銀行の前身。旧横浜正金銀行新京支店は、長春駅にほど近い勝利大街に残っていた。1920年の建築、正面に配された4本のイオニア式オーダーが目を引くのであった。旧横浜正金銀行といえば、この後大連にも歴史建築として残っていた。当時は中国の各地で外国為替業務を担っていたのだ。中国に21か所存在していたと。この建物の興味深いところは、玄関の「横濱正金銀行」という社名表示が当時のまま残っているという点。地上2階、地下1階、延べ床面積約1534㎡(465坪)。構造:煉瓦造。様式:ルネサンス様式。設計者:中村與資平。施工者:清水組。交通ルールを守らず、我が物顔で車線を歩く人々の姿。右手前方に『长春站(長春駅)』南口が見えて来た。1907年(光緒33年)11月3日:長春駅が貨物駅として開業。1907年(光緒33年)12月1日:旅客駅業務開始。1913年(民国2年):満鉄が32万円をかけた4,000平米の待合室が完成。1932年(大同元年)3月14日:長春市が新京市に改称したのに伴い新京駅と改称。1945年:第二次世界大戦で日本敗戦、満州国解体の為長春駅と改称。1992年5月26日:旧駅舎解体。1995年:新駅舎完成。少し進んで。『長春鉄路办事处』、ここは『旧满铁新京支社』。人民大街を南に進むと前方左手の建物の屋上にはロケットの如き物体が。『吉林省省直機関第一幼児園』『胜利公园』の毛沢東像。『北安路』。『中国人民銀行』人民広場の『苏军(ソ軍)烈士纪念塔』。人民広場横の『長春市公安局・長春市国家安全局』。そして昼食会場で長春の郷土料理を楽しむ。そして『神武殿旧址』の見学のためにバスを降りる。『長春市牡丹園管理所』とも。ここは牡丹の名所でもある。「旧関東軍司令部、旧東本願寺新京別院とともに長春に残る純日本式建築物の代表的存在。「神武」という名称から現地では神武天皇を祀った施設という誤解があるが、もとは1940年にできた日本式武道館である。竣工時内部は柔道場や剣道場、相撲の土俵があったが、現在では吉林大学の鳴放宮(講堂)として利用。設計は満州帝国武道会技師宮地二郎、施工は満州竹中組。」「紀元二千六百年」を記念して完成した「神武殿」旧址。神武殿旧址は1990年、長春市の重点文物保護単位(重要文化財)に指定されたものの、まもなく吉林大学が移転すると建物はひどく荒廃し、屋根には雑草が生い茂るありさまとなったが、二年前の修復作業によって旧観を取り戻した。しかし、日本帝国主義を象徴するこの建物をどう「活用」するのか、当局もまだ目処が立っていないのだと。牡丹園の華やかなにぎわいとは対照的に、訪れる人もまばらな旧神武殿の正門はこの日もぴったりと閉じられ、重苦しい雰囲気を漂わせていた。前庭の植栽の中にあった石碑。『吉林大学 四十周年校庆(創立)紀念』の文字が。『日本神武殿旧址』。園内には牡丹(ぼたん)・芍薬(しゃくやく)など約二百六十品種・一万一千株が、七種の色に大別されて植えられていると。満開になる5月下旬には一日およそ十万人の観光客が来園すると。この日は既に花は完全に終わっていた。バスに向かって路地を進む。この周辺は、岸信介が居住していた場所であると添乗員から。岸信介は1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。長春の雨水マンホール。『中国农业发展銀行(中国農業開発銀行)』。そしてこの日も『解放大路』沿い『文化広場』前を通過。右手には髪をなで上げた女性像が。三角形のモニュメントとその下に手を広げた男性像が。『新星字集団』ビル。『解放橋』を渡る。下には長春駅に繋がる鉄道線が。『解放大路を西に進む』。『吉林民政』ビル。『長春市工商行政管理局』。『市場監督管理』ビル。『長春市緑園区人民检察院』。景阳第街と和平大街の交差点には前日も見た赤いモニュメントが。景陽大路沿いにあった『長春市第八十七中学』。ビル前の歩道部分は駐車場になっていた。中国民生銀行(右)と融泰村镇银行(左)。西环城路との交差点を左折。南阳路を西に進み『長春西駅』を目指す。白いマスコット人形の如きものが道路の真ん中に。それともロボットのモニュメント?ハイテク工場がこの先にあるのか?長春西駅に近づくと路面電車が前方に、そしてその手前にはトラクターが。長春西駅から出て来た路面電車。長春有軌電車(长春有轨电车)と呼ぶ路面電車で1940年に新京交通株式会社として設立され、翌1941年11月に最初の路線を開業させた。中華人民共和国成立後には長春公交集団電車公司に移管されたと。長春西駅手前からのマンション群。                              ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・ 2019.07.13 コメント(1)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:3日目(6/21-4)           長春:伪满洲皇宫博物院(その3)・緝煕楼~勤民楼~興運門 更に伪满洲皇宫博物院の見学を続ける。これは「緝熙楼(しょうきろう)」といわれる建物で、溥儀や皇后の婉容(えんよう)、第三夫人の譚玉齢(たん ぎょくれい)の寝宮だったそうだ。まずは2階への階段を上る。古い建物のこの階段には独特な、なにかを感じさせてくれるのであった。溥儀の『漢方薬庫』溥儀は、青年時より薬好きで、専用の薬局を設けていたのだと。『婉容皇后(えんようこうごう)の書斎』。「1931年暮れ、満洲事変勃発後、溥儀が日本陸軍から「大清帝国の復興である新国家(満州国)」の皇帝となるよう要請を受け受諾し、天津を脱出して満州へ移住。静園から溥儀が去ったことを知った婉容は、溥儀から満州に来るよう求められたが皇后の身分にも皇帝のもとへも戻る意思がないと断ったが、関東軍の命を受けた金璧輝こと川島芳子に「皇帝が大連で亡くなったため葬儀に出席してもらいたい」と欺かれ、満州に連れ出された。溥儀が2年間の執政を経て1934年3月1日に皇帝に即位すると、婉容もまた皇后となるが、皇后に相応しくないと見なす関東軍の意向により、公式の場に姿を見せることはほとんどなく、告天礼の儀式にも、即位式に参列することも叶わなかった。6月7日、訪満していた秩父宮雍仁親王による勲章伝達式に際しても、関東軍は婉容を謁見させたくなかったが、「伝達式には皇帝・皇后ともに出席すべし」との日本政府の主張により例外的にこれを受け入れた。婉容は勲一等宝冠章受賞の儀式でもその後の宴でも、さらに12日に行われた満州国皇帝による招宴の席でも、噂されていたような中毒症状を見せることもなく、健康そのものの様子で儀式に臨み宴の女主人役を務めた。しかし自由のない閉塞的な暮らしと皇后としての振る舞いも許されない状況の下でアヘンへの依存は高まり、1935年頃には新しい衣料を購入することもなくなった。溥儀の弟溥傑の妻であった嵯峨浩は、1937年秋頃の様子として、アヘン中毒の影響から婉容の食事の様子に異常な兆候があったと自伝に記している。」と。『婉容皇后の寝室』。結婚以来、一度も溥儀とベットを共にしなかった。その寂しさを紛らわすため、溥儀の家来と浮気。その結果、溥儀からの愛は無くなったと。『婉容の応接間』はアヘン吸引室。婉容は、満洲国時代になると、日本ぎらいもあって、アヘンにおぼれて、公式の場所にほとんど姿をみせなかったと。以前は第一夫人の婉容がアヘンを吸っている様子がロウ人形で再現されていたとのことだがこの日はロウ人形はなかった。。『婉容の応接間』西洋知識豊富・英語堪能、琴・書画ともに優れた婉容の応接間。しかし、アヘン中毒となった婉容に、来訪すべき客はいなかった。『理髪室』。日本人津田という人がおかかえの床屋さんだったようです。清朝皇帝は「龍髪」という習慣があり、切った髪を黄色い絹に包み、日付を書いて保存していたと。また、溥儀が日常使う注射器をここで消毒していたと。なんでもホルモン注射をしていた模様。『溥儀の書斎』このにも以前は、溥儀と語り合おう吉岡安直の二人のロウ人形が椅子に座っていたようであったがこの日はここのロウ人形の姿もなかった。読書・習字の場。吉岡安直の指導を受け政治活動を行った場所。『溥儀の寝室』。1932年から1945年までの寝起きをしていた部屋。『溥儀の寝室』のベッドの手前。『溥儀の仏間』神仏信仰は清朝歴代皇帝の伝統。溥儀は歴代清朝皇帝同様熱心な仏教信者。この仏間で読経、占い、運命判断、祭事などをみずから行っていたとのこと。『溥儀の浴室』。右側が浴室、左側がトイレであろうか。第三夫人の『譚玉齢(たん ぎょくれい)の応接室』。1920-1942。北京に満州族の貴族の子として生まれ、17歳の時、当時32歳の溥儀の側室となる。22歳で病死。他他拉貴人(たたらきじん)の名でも呼ばれる。温厚でおだやかな性格で、最も寵愛を受けたといわれているが、宮仕えの5年後わずか22才で謎の死を遂げており、溥儀はそれを後々まで日本軍による毒殺と疑っていた。「私の妻は…私の貴人は、非常に私との仲がよかったのであります。年は若くて23でありました。あるとき私の貴人は病気になりました。彼女は中国を愛し、即ち中国の国家を愛する人間でありました。そうして貴人は常に私に向って、今はやむをえないから、できるだけ忍耐しましょう。そうして将来時が来たならば、失った満州国の地を中国にとり返すように致しましょう、と語っておりました。しかしながら、私の貴人は日本人に殺されたのであります。」と、愛新覚羅溥儀の著・『わが半生』には書かれていると。偽満皇宮博物院における緝煕楼(しゅうきろう)の一階の東側では、溥儀や皇后、皇妃の生活写真が展示されていた。この時代は、カメラの普及も進んでおり、古い写真も数多く残されていたのであった。写真館の溥儀と婉容。1922年、正妻の婉容と結婚した溥儀(左)と婉容。溥儀と婉容。婉容。婉容は、北京で生まれたが、天津で育って英語を含めた西洋的な教育を受けていた。17才の時に、溥儀の皇后として迎えられたが、溥儀の同性愛的性向あるいは性的不能によって、夫婦仲は冷えていき、アヘンに手を出して、重篤な中毒に陥って行ったのだ。溥儀が満州国皇帝となると婉容も再び皇后になったが、アヘン中毒と日本人嫌いのため、公式の場にはほとんど姿を見せず、最後は身なりにも気を使わないような精神的錯乱に陥って行った。婉容は、満州国皇后時代に愛人を作り、娘を出産するが、生まれた子供は、すぐに彼女の前から姿を消してしまう。本人には、親族の手で育てられていると告げられたが、実際は溥儀の命を受けた従者の手によって、ボイラーの中に投じて殺害されたと。日本の敗戦後の逃亡の際に溥儀一行から置き去りにされて、共産党軍の手におち、吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、孤独の内に死亡したといわれているのだ。第2夫人の文繍(ぶんしゅう)。位階は淑妃。婉容が皇后に迎えられる前日に、側室として紫禁城に迎えられたのが、13才の文繍。紫禁城の中で、溥儀や婉容とともに過ごす日が続く。天津の日本租界に移ってから溥儀のもとから逃亡して、3日後に離婚の訴訟を裁判所に申し出ると溥儀が慰謝料を支払うことになって、離婚は成立して、文繍は平民に戻った。文繍は、私立学校の先生になったが、皇帝の側室であったことが世間に広まったことから退職を余儀なくされたと。1931年、溥儀との離婚を裁判所に申請して認可され、溥儀が慰謝料5万5千元を支払うことで離婚が成立した。この時の離婚の条件は、文繍が生涯結婚をしないというものであったと。最後は45才で、飢え死にに近い状態で亡くなったと。北京故宮長春宮の婉容。婉容の写真が並ぶ。溥儀と婉容そして二人の妹と一緒に。天津静园での溥儀夫妻。婉容。北京故宮にて自転車に乗る婉容。婉容の弟・潤麒と一緒に。日本公使館にて。天津にて溥儀の誕生日に時の写真であると。満鉄経営の湯崗子(とうこうし)温泉(現在の遼寧省鞍山市の湯崗子駅の東)の対翠閣(たいすいかく)門での溥儀夫妻(左)と1932年3月8日長春での溥儀夫妻。第三夫人の譚玉齢(たんぎょくれい)(中央)と愛新覚羅溥傑(満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟)の妻・嵯峨浩(左)。1943年の4番目の妻・李玉琴 (り・ぎょくきん)(右)と1957年の李玉琴(左)。関東軍としては、満州国皇帝に世継ぎができる必要があった。そこで側室を迎えることを溥儀に勧めた。関東軍の手で集められた候補のうち、新京市内の料理屋の店で働く労働者階級の娘の15才の李玉琴が選ばれた。皇帝の側室というよりは、召使のような扱いで、廃人と化した皇后婉容を最後まで世話した。溥儀の収容所時代に、離婚することになたと。1982年の李玉琴。そして溥儀の最後の妻(5人目)は李淑賢( り・しゅくけん)、看護婦をしており、戦後、溥儀と結婚する。溥儀の死後、その意志に基づき、彼の後半生の手記を書き上げた。1962年結婚。二人の結婚生活は仲睦まじかったと伝わっている。ちなみに、溥儀にとって生涯唯一の恋愛結婚でもあったと。『譚玉齢の応接間』1937年に溥儀と結婚。溥儀に愛されていたが1942年22歳の若さで急病にかかり死去。元は溥儀が食事をした食堂を、1937年以降、譚玉齢の応接間に改造。溥儀の妹達はよく来訪し、譚玉齢と雑談した。『譚玉齢の書房』元は溥儀の書房。1937年以降、譚玉齢の書房に改造。読書・習字だけでなく、琴を弾いたりした。また、溥儀に生活用品を編むこともあった。『譚玉齢の寝室』婉容はアヘン中毒になり、文繍は逃げ去っていたため、満洲時代になって15才の譚玉齢 を1937年側室に迎えた。溥儀との仲は良かったのだが、重い病に。清朝以来の習慣で漢方薬医に治療をさせるが、衰弱していく一方であった。この病気は御用係りの吉岡の耳に入り、日本人医師に診察させるよう勧めた。吉岡の言葉に反対できない溥儀は、日本人医師に治療を行わせる。栄養剤の注射と輸血を行ったその晩に譚玉齢は急死してしまう。譚玉齢は、愛国心が強く関東軍に反感を持っていたために、吉岡の指示によって暗殺されたという疑いがわいて来たと。溥儀は後の東京軍事裁判で、譚玉齢は吉岡に毒殺されたと証言したのだと。『西御花江園』入口。「西御苑は、偽満州国の初期に、吉黒榷運局の花園の敷地に造られたのである。敷地面積は2200m2以上である。園内にいろいろな草花と木が植えられ、東屋や築山が池に映って美しい景観となる。東御苑ができていないとき、溥儀と宴用はよくここへ遊び楽しみに来る」『西御花江園』案内表示。『勤民楼』溥儀が清王朝復活の大志を示すため「天を敬い祖を則り政に勤め民を愛す」という清王朝の家訓より命名。政務・式典・来賓接待・宴会を行った場所。ここにも入りたかったが、今回のコースには入っていない模様であった。『​勤民楼​👈リンク』に関心のある方は・リンクにアクセスしてください。『勤民楼』前庭部。『勤民楼』出口門は『迎晖門(迎暉門)』。『宮内府』、『興運門』に向かって進む。『宮内府』入口。暢春軒。溥儀の妹たちが暮らしたところで、寝室や応接室などがあった。溥儀の実父が訪ねてきた時にもここに滞在したとのこと。ちなみに、この博物院に展示されている家具はほぼほぼ全てレプリカで、本物は文化大革命時にすべて失われてしまったらしい。偽満州国では宮内府大臣の下に日本人次長を置いていた。次長は名義上は大臣の補佐であるが、人事・財務等のすべての行政権を持ち偽満州国政権を制御していた。総務処は職員の監督・指揮をする。各書類の保管や、宴会・賞与および職員の任免・賞罰等の事項を管理していた。正面に『興運門』の内側が。9:10で止まっている時計。溥儀が長春から逃げる時間で、時が止まっているのだと。『興運門』の表側。皇帝のシンボル「ランの花」の紋章。また、門に描かれている龍は皇帝の証であると。林の奥に多くの馬の姿が。奥には『御用乗馬場』があった。溥儀も実際に遊んだ乗馬場であると。そいて柳の並木の下を出口(入口)に向かって進む、黄色の花にはミツバチが。『紫椴』、『菩提樹の花』であるようだ。                              ・・・​もどる​・・・                   ・・・​つづく​・・・ 2019.07.12 コメント(0)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:3日目(6/21-3)          長春:伪满洲皇宫博物院(その2)・道徳殿~中和門~緝煕楼 偽満州国皇宮の配置案内図。①同徳殿 ②中和門 ③緝煕楼 ④勤民楼 ⑤宮内府 ⑥興運門 の順番に巡ったのであった。偽満州国皇宮(ぎまんしゅうこくこうぐう)は満洲国の首都新京(現在の中華人民共和国吉林省長春市)に築かれた満州国皇帝の宮殿。第二次世界大戦末期に対日参戦し満洲国に侵攻した赤軍(ソビエト連邦軍)が新京を占領していた混乱期に宮殿施設の多くが著しく荒廃したが、その後中華人民共和国政府が宮殿の一部を復元し、偽満洲国における日本軍の占領政策の歴史を展示するという趣旨の博物館「偽満皇宮博物院」として公開されている。2013年に全国重点文物保護単位に指定されたのであった。道徳殿の配置案内図。偽満州国皇宮内・①道徳殿を最初に巡った。一階の一番奥にあったのが『日本間・和室』日満の関係を表すために日本式の部屋を作っのだとた。溥儀は関東軍の高級武官・吉岡安直他と会見し日本料理をともにしたのだと。主に接待用に使われた日本間であったと。道徳殿の1階中央廊下。赤い絨毯が。『ビリヤード室(台球間)』。ビリヤード好きな溥儀が宮廷の学生とビリヤードをやって時間をつぶした。学生たちはわざと負けを認め溥儀の機嫌を取ったと。『ピアノ室(钢琴间)』。溥儀が弾いていたピアノ。「溥儀は北京故宮にいたとき、もうピアノ曲が弾けるようになった。道徳殿が落成した後、わざわざピアノ室を設置した。溥儀はたまにここでピアノ曲を弾いて傀儡皇帝としておこっても言えざる憂鬱と不満を当たり散らしていた。」『中国間』部屋の中すべてが中国伝統の家具。溥儀はここで休憩をし、皇族や清朝旧人と会見したと。様々なシャンデリアが。『便見室』溥儀が定期的に日本関東軍と会見し、偽満州国の様子を話していたと。溥儀の写真。『同徳殿 映画ホール』同徳殿も政治色・関東軍の匂いのする建物である。ここは映画「The Last Emperor」の舞踏シーンなどで使われたホール。甘粕元大尉役で坂本龍一が出演しているのだ。溥儀がときどき家族と日本の侵略戦争を美化した映画をみたのだと。映画ホールの天井のシャンデリアと壁の照明。映画が上映されるようであったが、残念ながら現地ガイドから次の場所に行くと。『叩拝間』参拝室とも言われて、溥儀が執務し日偽官吏を召見し来賓と会見し朝賀を受けた場所だが正式には使用されなかった。重要な祝日の時、溥儀がここで家族、「皇族」たち、及び身近な人のお礼を受けたところである。『広間』溥儀が祝日や誕生日に官使から祝福を受けた場所。映画ラストエンペラーにも使われたと。『道徳殿保護修繕紀實開幕式』の垂れ幕。「同徳殿」が竣工した1938年(康徳5年)の文字と保護修繕事業が2002~2017に渡って行われたのであろう。広間は日本語で、すなわちホールの意味である。溥儀は祝日と誕生日の時は日満と偽満の官吏から朝賀を受ける場所としてのみ利用した。太平洋戦争勃発後、溥儀は日本と偽満州政府によって行われた金属献納運動を支持することを表すために、金属製の宮燈四つ、献納して日本の引き起こした侵略戦争を支援した。『広間』の天井。純金が用いられ、1つ1トンにも及ぶ豪華なシャンデリアが4つ。ユニークな形状の照明灯。最後に『道徳殿』の案内表示板。『西厢房』であろうか?『緝熙楼』横。『緝熙楼』案内。『中和門』。『中和門』広場。『日本憲兵室』偽満州国皇帝の安全保護の組織。常時3~5名の日本人憲兵が居住。しかし、本当の目的は、溥儀の行動を監視し、日本関東軍に報告するための組織だったと。次に訪ねたのが『緝熙楼』。名称の意味は「時々刻々清王朝の回復を忘れない」。溥儀や(皇后)婉容・(妃)譚玉齢が住んでいたと。安全の為に一度に50人以上の入場はご遠慮くださいと。『緝熙楼』の広場前にあったのが『勿忘”九.一八” 江沢民』。九.一八忘れること勿れ。9.18とは日本で言う満州事変のこと。抗日愛国教育を推進した江沢民の署名入りであった。何故か、現地添乗員の説明はなかったのであった・・・・。                              ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・ 2019.07.11 コメント(0)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:3日目(6/21-2)           長春:伪满洲皇宫博物院(その1)・東御花園~御用防空壕~建国神廟~防空壕 この日の最初の訪問場所は『伪满洲皇宫博物院』。『汪伪政府伪駐満洲国大使館旧址』汪兆銘政権は1940年から1945年にかけて存在した、中華民国の国民政府。行政院長は汪兆銘。首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府とも呼ばれた。中華民国南京国民政府の名で呼ばれることも多い。ここが汪伪政府の満州国内の大使館であったのだろうか。『汪伪政府駐伪満洲国大使館旧址』。『伪满洲皇宫博物院』入口門を見る。門の前では団体が記念撮影中。『伪满皇宫博物院餐庁』。『伪满皇宮博物院』正門。入って左側には『御膳房』が。王家の紋章が刻まれた門を入るとすぐの所に、「偽満州国皇宮」とかかれた石碑があり、中国語で「日本の帝国主義が中国に侵略し……」という内容が書かれているとのことで、日本に対する敵愾心を顕にしているのだと。『東御花園』への入口門が正面に。『東御花園』への入口門から『伪满皇宮博物院』正門を振り返る。長春におけるメインの観光地、偽満皇宮博物院を見学した。ここはラストエンペラー愛覚覚羅(あいしんかぐら)溥儀(ふぎ)が1932年から1945年まで過ごした宮殿。ここはもともとは塩の専売公社だったところを仮宮殿として使用したもの。ゆくゆくは地質宮に立派な新宮殿を建てようとしていたようだが新宮殿が完成する前に太平洋戦争が開戦し、宮殿建築にまわす資金が充当できず建設がとまったまま終戦してしまったと。仮宮殿ということで、中は正直言ってそれほど広くなく、溥儀の生活はずいぶん窮屈であったのではと感じられたのであった。紫の花。『紫丁香』。ライラックの漢字名。ここが『偽満皇宮博物院』の正門。『偽満皇宮博物院』配置案内図。『東御花園』、『御用防空壕』、『建国神廟』案内図。『東御花園』と書かれた石碑。入口の門に大きく描かれていたのは、蘭(西洋の蘭ではなく、フジバカマという東洋の花)をイメージした満洲国の国章。5枚の花弁は、日本(大和)、満州、朝鮮、漢、蒙古の5つの民族を表していて、”五族協和”の建国理念がここにも示されていたのだと。『同徳殿』『東御花園』の噴水。『天照大神防空壕』入口。『天照大神防空壕』天照大神防空壕は1940年に、「天照大神」を供える「建国神廟」と同じ時期に造られたものである。鉄筋コンクリート造りであり、豪の中に「天照大神」の逗子を置いていた。偽満州国の末期に、空襲に見舞われるたびには、祭祀官は「天照大神」を豪の中に運んで、空襲を避ける。『建国神廟』の遺跡は礎石部分のみ残っていた。別の角度から。『建国神廟の遺跡』「「建国神廟」は、日本式の木造の神社であり、1940年に建てられたものである。「唯神の道」を核心とした思想支配を強化するために、同年7月、日本関東軍は溥儀を訪日させ、日本肇国の祖先とされる「天照大神」を偽満州国の「建国元神」として供え、さらにそれを信仰し祭祀することを、東北人民に強制するように意を授けた。1945年8月11日夜、溥儀が皇宮を逃げ出した際に、関東軍の放火で焼かれ、今は礎石だけ残っている。」境内に横たわっていた石碑類。『第一陣神社』。満鉄の最盛期に首都に建てた中学「新京1中」の校庭の南西にあった神社。祭神:天照大神、神武天皇、明治天皇創立年・鎮座年等:1936(昭和11)年5月5日『中華民国十二年癸亥4月・・・・』と刻まれた石碑。『一天四海皆帰妙法 日達』と刻まれた石碑。天下をして、一天四海をして、等しく救い上げねばならない。平和を作り上げねばならない。このことを実現させるために、南無妙法蓮華経は、仏様が末法に、時代を限って残された法門だ、ということが日蓮大聖人の宗教であるとの教え。当時の『建国神廟』の写真をウィキペディアより。『東御花園』の散策路を進んでいくと、観光客が立ち止まっている場所が東御花園地下にある防空壕。こちらが防空壕入口。説明板「御用防空壕は1939年に建設され、溥儀及びその家族が空襲を避けるためである。鉄筋コンクリート造、その中、すべての部屋には衝撃波を防ぐ鉄ドアを備え、また重型爆弾の直接攻撃を防ぐことができる。偽満洲国の家には溥儀がたまにかれの家族を連れてここに避難していた。」東御花園にあるプール。溥儀は泳げなかったのだが、プールサイドで休息するのは好きだったのだと。奥の広場の先には「嘉东殿」、『书画楼』の建物が。                              ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・ 2019.07.10 コメント(0)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:3日目(6/21-1)          長春:『伊通河』沿い早朝散歩 3日目・6月21日(金)のこの日も快晴の朝。6:30にホテルを出て近くを流れる『伊通河』岸の散策に向かう。ホテル『中日友好会館』を振り返る。ホテル正面。ホテル前の『自由大街』、未だ交通量は少なかった。ホテル近くにあった『幸福经开 双迎您』と書かれたモニュメント。「幸せな発展」のスローガンなのであろうか?中央分離帯には緑が溢れていた。そして『伊通河』の流れと川岸の住宅街。『伊通河』に架かる『自由大橋』。白の曲線美の美しい『自由大橋』。多くの釣人が早朝から。前方には堰が。電動式の堰。堰の上には遊歩道が。川沿いの公園(工事中)には中華風東屋が。この場所には何を植えるのであろうか?日本のワサビ田の如き光景。小川に架かるアーチ橋。馬の上で横になって眠る老人の像。中国の馬と人間の伝統的な関係を表現していると。公園の近くの幼稚園。高架は『軽軌4号線』。長春の環状線の様な役割を果たしていると。前方に『自由大路駅』。エスカレーターで駅構内へ向かう。改札口。この後、係の女性が出てきて、電車を利用するために改札を通過する一人ひとりに大きな刷毛の様なものでセキュリティーチェックを始めたのであった。カメラを構える我々に対する眼も厳しかったのであったが・・・・。電車が駅に入線。まだ比較的空いている模様。今気がついたのだが、運転席に人の姿が見えない!!無人運転なのであろうか?料金表か?『中国海?』ビル。『中国長城資産』ビル。そしてホテルに戻る。朝食会場へ。バイキング朝食を楽しむ。時間は7:32。                              ・・・​もどる​・・・                              ・・・​つづく​・・・ 2019.07.09 コメント(0)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:2日目(6/20-5)            長春:市内観光・長春駅~ホテル・中日友好会館 長春市の市内観光に出発。​長春の現地ガイドは金?さん。長春市(ちょうしゅんし、チャンチュンし、中国語:长春市)は、中華人民共和国吉林省に位置する副省級市で同省の省都。市区人口約438万人・総戸籍人口約749万人(2017年)。吉林省政府が所在し、省内の政治、経済、文化の中心地となっている。1932年から1945年までは満洲国の首都とされ、新京と呼ばれた。 市内には長春第一自動車製造工場と長春映画製作所が所在し、中国における自動車工業と映画製作の拠点となっていると。長春駅前の『苏宁易购(Suning.com)』のユニークなデザインのビルか?巨大な中国のEC市場においてNo.4のシェアを誇るのが家電量販店を前身とする企業、蘇寧電器が運営する『苏宁易购 蘇寧易購(Suning.com)』。長春駅北口前の高層ビル群。2017年に開通した地下鉄1号線。『胜利公园(勝利公園)』人民街の北部の西側に位置し、南は团结路(Tuanjie Road)、北は嫩江路(Nenjiang Road)、西は白菊路(Baiju Road)に隣接し、 長春駅 、吉林省党委員会、 省政府に近接している。正門には毛沢東の像が立てられていた。『中国共産党吉林省委員会』。日本の城を思わせる建物は『旧関東軍司令部』。もともと、関東軍司令部は旅順に設置された。1919年のこと。満州事変が起こり、旧満州国が設立した後、旧満州国の首都だったここ長春(当時の新京)に移設されたと。1934年のことであると。設計は関東軍経理部、施工は大林組であったと。そして超日本的デザインの建築物を吉林省の最高権力機関として使用しているのだ。右手にも天守の如き姿が。侵略の事実を伝える負の遺産として残していることは間違いないのではと思いますが、中国の方々、吉林省の方々は寛容というか何というか、頭が下がる想いも感じたのであった。当時の『関東軍司令部』の写真。    【https://www.gakushuin.ac.jp/univ/geore/research/2015a/sinkyo-headquatersofkantoarmy.html】より坂道を上り『吉林省松苑賓館』を訪ねた。『関東軍司令官邸』として使われていた建物であるとのこと。1931(昭和6年)8.1満蒙の緊迫した情勢の中で、菱刈隆大将の後を受けて関東軍司令官に就任した『本庄 繁』が住んでいたと。そしてその一ヶ月後に柳条湖事件が起こり、関東軍参謀たちによる謀略で満州事変が起こったのだ。緑に囲まれた環境抜群の場所で、たんなる宿泊施設ではなく、結婚式などにも利用されているようであった。1955年2月16日-20日 人大代表ダライラマが宿泊したとのこと。邸の横に回る。裏側。そしてこちらが現在の『吉林 松原 ホテル (吉林省松苑賓館)』。レンガ積みに壁は蔦がからまり。『吉林省松苑賓館』入口。内部をドアのガラス越しに。『関東軍司令部附属用房旧阯』『吉林省国家安全庁』『財金中心』ビル。『人民広場』に向かってバスは進む。地下鉄1号線『人民広場駅』入口。人民広場ロータリーから『中国人民銀行』ビルを見る。『吉林省賓館(吉林省宾馆)』ドライバーが『人民広場』のロータリーを観光用に1周してくれたのであった。『人民大街』の長春駅方面を望む。そして『長春市公安局(旧満州国首都警察庁旧址)』そして『人民大街』沿いにある『長春市体育館』前を通過。『文化広場』とその奥に『吉林大学地质宫博物馆』。この博物館の建物の基礎部分は、過去に日本が作ったものであると。『文化広場』の中央には三角錐のモニュメントが。三角錐のモニュメントの上には鳥の形のモニュメントが。文化広場ではみんな凧を挙げていたのであった。『文化広場』には女性像も。『伪满洲国国务院旧址』偽満州国国務院旧址は新民大街2号にある、1936年に完成した満州国の最高行政機関。かつてはここに総務庁と参議院の建物があったと。 『偽満州国八大部』(満州国の国家機関のうちで、現存する8つの建築物)の要であった。現在は吉林医科大学教養課程キャンパスとなっていると。概観は、『川』の字に見える建物と、塔のような形で、灰色のガラス瓦を葺いた屋根でできている。西洋風の趣きを兼ね備えているので、これを『興亜式』と呼ぶと。また、設計は日本の国会議事堂を参考にしたのだと。『偽満洲国軍事部旧址』旧満州国軍事部は、長春・文化広場の南側に位置していた。旧満州国国務院の向かい側。1935年に竣工された旧満州国の軍務を掌った機関。もとの名前は「軍政部」であり、偽満州軍隊を指揮する重要な機関である。1937年に「治安部」を改名した。この建物は1970年に全体的に一層建て増やした。屋根部の形も建て直し、琉璃瓦を緑色に直し、巨大な装飾浮き彫り図案を添えた。現在は吉林大学白求恩医学部付属第一医院として利用されていると。『吉林电视台(吉林電視台)』はテレビ・ラジオ局。『満州国交通部跡』この建物は今新民大街7号に位置し、1937年から建て始めた。鉄筋コンクリート構造である。主体ビルは四層、両翼は三層、地下は一層である。今は吉林大学医学部の公衆衛生系教学ビルである。『吉林省電子技術研究所』?『偽満洲国司法部旧址』長春市新民大街6号に位置している司法部は1935に建った。この部は司法、裁判所、民事、刑事、戸籍及び他の司法などの事項を司っていた。全体には十字形をし、正門が西向けで、主体は三階、地下が一階である。真中には三階のタワービルが建てられている。タワービルの低層にアーチ型の窓があり、二、三階は長方形である。鉄筋コンクリート構造であり、総面積は16328平方メートルである。満州国法務省にあたる。現在は吉林大学医学院本館。  『偽満州国国務院』。日本の国会議事堂に似ていた。現在は、吉林大学白求恩基礎医学部となっている。竣工1936年。手前には銅像が。日中戦争中戦死したカナダ人軍医ベチューンの銅像、正面の松は溥儀が植えた松であると。何代目か?『偽満州国国務院旧址』。巨大な柱が4本。『原偽満州国国務院大楼简介』。現在の『吉林大学白求恩医学院简介』。エントランスの車寄せスロープ。『長春テレビ搭』は218m。バスに戻り『偽満州国国務院』を『解放大路』から。『解放大路』に面したホテル。​こちらも『盛荣大厦』ホテル。『21世紀国際商務总部』『吉林大橋』を渡る。流れる川は『伊通河(いつうが)』。『伊通河』は伊通満族自治県の青頂嶺に源を発して、北へ長春市内、徳恵市内へと流れ、飲馬河に合流して間もなく松花江にそそぐ。全長342km。南北朝時代に夫余がこの川岸に王城を築いていると。吉林大路を東に進む。吉林大路沿いにあった『圣都大酒店』。东盛大街沿いの本場の中華街『坊盛吉』入口。东盛大街を南に進む。そしてこの日の夕食会場は『屯?阳向』長春名物 豆腐料理を楽しんだのであった。そしてこの日の宿の『中日友好会館』に到着。自由大街沿い、伊通河に近いホテル。ロビー内。フロント。「中日友好会館」という名前にかかわらず、日本語のできる従業員は見当たりませんでした。日本のODAで建設したという経緯があるホテルらしいが、裏話がいろいろあったようだが現場添乗員に聞き損なってしまったのであった。511号室の我々の部屋。この日も、部屋でビールとウィスキーで暫しの反省会後にベッドに転がり込んだのであった。                              ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・ 2019.07.08 コメント(0)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:2日目(6/20-4)          ハルビン(哈尔滨):スターリン公園(斯大林公園)~长春站(長春駅) ​​バスに乗り、スターリン公園(斯大林公園)の見学に向かう。しかし、スターリン公園(斯大林公園)は既に早朝散歩で制覇済みなのであったが。途中バスの正面にハルビン駅(哈爾浜駅)の南口が左側に見えた。そして東口周辺は大規模な再開発工事が行われていた。霄虹橋を再び通過。ハルビン駅北口前で右折して、地段街を通過し松花江方面にバスは進む。前日訪ねた『聖ソフィア大教堂』の前を再び通過。『金太陽精品商城』ビル。『石头(頭)道街』を進む。『ハルビン(哈爾浜)市兆麟小学校』。『原希尔科夫公爵私邸(兆麟小学)』旧日本人学校『桃山小学校』。松花江と太陽島を結ぶロープウェイを再び。多くの中国人の『シルバーダンス』。女性グループが仲良く。松花江右岸のロープウェイ駅に入るゴンドラ。そして暫しの自由時間になり、4人の方はロープウェイで太陽島を往復すると。我々は、街並み散策に。そして広場脇の『ゲテモノ』の串焼き売り場を発見。正面にはなんと「サソリ(蝎子虫)の串焼き」が。別の角度から。上のものは蚕の蛹であろうか?「セミの幼虫」か?この幼虫は?俗に「中国人は足の四本あるものは机以外全て食べる」と言われているように、中華料理では様々なものを食材にしてしまうほどの研鑽を積み重ねています。そして、六本の足がある昆虫もまた、食材の例外ではないのです。「ムカデ(蜈蚣)」「友誼西路」を西に進む。前方には高層マンション群が見えたが、7~8割は空き家で投資の対象になっているのだと。左手には「上江街」と高層アパートが。「MY・PARTY电音工厂(電音工場)」。「友誼西路」脇のモニュメント。様々なマンションが。左手は「兴(興)江路」途中、ロシア&東北民芸品店に立ち寄る。ここも今回のツアーの予定に入っているのであった。「椴树雪蜜 LINDEN SHOW HONEY」はユーカリ蜜であろう。中国で販売されている蜂蜜は水飴に香料で香りを付けただけ、転化糖などの合成物を添加して、人為的に模造はちみつを作ったものも多く、中国国内で流通しているハチミツの多くは、何等かの手を加えられている、と言われています。中国は世界第一位のハチミツ生産国ですが、輸入大国でもあり、各地から上級品を買い付け輸入しています。中国の消費者は、中国産のハチミツを信用せず、大抵中に何か入っているか、水飴に色を付けたものというように考えているようで、輸入品を購入する機会が増えていると言います。500gで約1100日本円と確かに安いが、中身は????「中国産 乾燥黒木耳(きくらげ)」。『音乐公园』の赤いモニュメント。音楽の都と言われるハルビン市。モニュメントには楽譜が。この写真のオリジナルを我が妻に見せると、この楽譜の曲は『​中国国家 義勇軍行進曲👈リンク​ 前奏と途中の歌の中の一部』であるとのこと。松花江岸にある公園内の遊歩道の正面玄関と建築物。灯台であろうか。友誼西路を更に進む。そして昼食はもちろん中華料理をターンテーブルで。時間は13:07。そして次の訪問地『長春』には新幹線で移動する為、ハルビン駅(哈爾浜駅)北口へ。ハルビン駅(哈爾浜駅)北口正面。駅前の『伊維尔教堂(聖イヴェール教会)』。1907年建立の軍用のロシア正教会なのだと。ハルビン駅(哈爾浜駅)北口の大時計。十二弁の菊花紋の如く見えたが考えすぎか?セキュリティー検査入口ではチケッとパスポートを提示する必要があった。トランクのセキュリテイ検査が実施され、私がトランクに入れていた、100均で購入して持参したチーズカッターナイフと鋏は没収されたのであった。セキュリティー検査は空港よりも簡単とのことであったが、成田空港では通過したものがひっかかったのであった。出発時間まで待合室にて待機。ここはチケットの持っている人のみ入れる場所なのであった。時間は14:21。出発便電光案内ボード。利用便はD-136、15:35発。牡丹江駅発吉林駅行き。LED電光掲示板見た目では常時点灯しているように見えますが、実は超高速で点滅を繰り返しています。(この高速で点滅する現象をフリッカーと呼びます)。よってシャッタースピードを速くしなかった為に映像が途切れてしまいました。黒竜江省のハルビンから吉林省の長春まではおよそ270km。私のチケット。もちろん二等座。金額は81元≒1350円。東海道新幹線の東京-浜松間に相当する距離がこの値段で移動できるのであった。ちなみに列車番号の先頭に「D」がつくのは在来線の線路を走るタイプの新幹線(秋田新幹線などのイメージ)で、所要時間が若干長く、D136の場合は所要時間が約1時間30分となっていた。チケットには英文でフルネーム、パスポート番号の一部(下2桁のみ**)、改札口NOも印刷されているのであった。中国の鉄道は基本的に列車改札で、時間になるまで改札口が開かなかった。それで、列車出発の20分前、改札開始まで改札口近くで待機していたのであった。D列車はホームを在来線と共有しているので、改札も自動ではなく有人。改札を通過し2番線ホームへエスカレーターにて下りる。エスカレーターが下る途中、1番線ホームに安重根が伊藤博文を暗殺した場所が解るとのことであったが、場所を特定できなかったので1番ホームに向けてとりあえずシャッターを押す。エスカレーターを降りた後方との事であったが、ネット情報によると実は斜め前方なのであった。            『https://www.youtube.com/watch?v=2GamxJgDknY』よりこちらの四角のプレートが埋め込まれた場所が伊藤博文が倒れた場所であると。          『https://www.youtube.com/watch?v=2GamxJgDknY』よりこの写真はイタリアから導入した新幹線車両CRH5であろうか?2号車の乗車位置に向かって進む。日本と違い、中国ではホームには安全ゲートは付いていなかった。そして定刻にD-136、15:35発に乗り込む。大きい荷物を持って乗車する場合、荷物の置き場を確保しなければならなかった。今回の新幹線では荷物置き場(上下二段、2~4個収納できる)は列車の連結部近くにあった。この荷物置き場は予約できず早い者勝ち。思いの外静かで車両の揺れも殆どなかった。時速243km/hを表示。両側に田園風景がひたすら続く。『新洋丰(豊)肥业(業)』の大型サイロであろうか?長春の街並みが見えて来た。『德惠西站(駅)』は長春駅の2つ手前の駅。そして定刻に長春駅に到着。全員が降りる前に乗ってくる乗客が数名いたのであった。『长春站(長春駅)』案内板。駅構内案内表示。そして長春駅の前で待っていてくれた大型観光バスに乗り、夕飯会場へ。                              ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・​​ 2019.07.07 コメント(9)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:2日目(6/20-3)           ハルビン(哈尔滨):旧日本総領事館跡~旧ヤマトホテル 2日目のハルビン市内観光に向けて8:30にホテルをマイクロバスで出発。霁虹街を東に向かって進む。ハルビン駅の前を通って、駅の右脇にある『霁虹桥』を渡る。南崗区と道里区にまたがる 起工:1926年、竣工:1927年。歴史は「中東鉄路(東清鉄道)」時代に遡り、築百年以上を数える。一時期、音をとって継紅橋と呼ばれたこともあるとのこと。霁虹桥の方尖碑に1926の文字が。哈爾濱市文物保護単位に認定。見事な欄干の造形。ハルビン駅への線路が下方に。『哈爾浜医科大学第四臨床医学院』この旅行の全行程を案内してくれた王さん(左)とハルピン市内観光添乗員の蘇さん(右)。ハルビン駅前に紅軍街が通っていた。南東に200mほど進むと右側にハルビン鉄道局外経貿公司の建物が街路に沿って建っていた。ここが、哈尔滨の『旧日本総領事館跡』杉原千畝は外務省に採用され、ハルピンの日本総領事館にロシア係として勤務していたのはこの場所だったのだろうか?場所は紅軍街108号。現在は『哈爾浜鉄路運輸法院』。『哈尔滨鉄路 対外経貿有限公司』のプレート。1924年創建後、南満州鉄道ハルビン事務所として使用されたが、1936年に総領事館として再使用されたのだと。『南満州鉄道株式会社 哈尔滨事務所旧址』のプレートが左に。『历史建筑(歴史建築)』の銘板も。1924年建築開始、1925年落成、1936年日本総領事館になったと。『哈爾浜鉄路運輸法院』を振り返る。『民益街』との立体交差。『哈尔滨鉄路局 哈尔滨通信段』と書かれたプレート。中国語『段』は区.部門とのこと。紅軍街の中央分離帯には花々が。『红博广场』から『北方世貿中心ビル』。『红博广场(旧大広場)』の旧ニコライスキー寺院跡のモニュメント。ハルビン旧大広場(現、紅博広場)の中央寺院跡。中央寺院は戦後もしばらく残存していたが、1966年の文化大革命で惜しくも破壊された。今は唯一背後の博物館の建物のみが健在だと。広場の地下には地下鉄が走っていると。『松雷商業大廈』。东大直街の『秋林(ちゅうりん)公司』。ハルビンでは有名な食品会社がやっている百貨店。大列巴という人の頭くらいの巨大なパンが有名であると。『華邑童装世界』はハルビン市の靴店。『圣安口腔』医院ビル。右手に『ハルビン聖心天主教堂(はるびんせいしんてんしゅきょうどう、中国語簡体字: 哈尔滨圣心天主教堂)』。中国黒竜江省ハルビン市南崗区にあるカトリックの教会であり、司教座聖堂。正式にはハルビン・イエス聖心主教座堂(簡体字:哈尔滨耶稣圣心主教座堂)と呼ばれ、黒龍江教区の中心的な存在であると。『プロテスタント教会』。『歴史建築』、1916年建築。内部では聖歌が歌われていたので暫し聴き入る。『ウクライナ教会』。住所は、ハルビン市南崗区東大直街268号。『历史建筑(歴史建築)』、1922年建設開始、1930年完成。元々は東正教聖母帲幪教堂、現在は聖母守護教堂。1922年建、1930年重建、鉄筋コンクリ柱梁煉瓦造り。『圣母守护教堂(聖母守護教会)』は1981年に『黒竜江省文物保護単位』に指定されていた。当聖堂にはハルビン聖母守護教堂、ウクライナ教堂、ウクライナ教会、聖母守護教会、聖母帲幪教会、中華東正教会ハルビン教会などの別称・表記が存在する。日本語のみならず中国語でも表記には様々なものがあると。左手に『ウクライナ教会』、右手に『ハルビン聖心天主教堂』。再びバスにて『红博广场(旧大広場)』の『旧ニコライスキー寺院跡』のモニュメントの横を通過する。『红博广场(旧大広場)』には旧ソ連紅軍との協力を称える像も建っていた。『哈尔滨』駅東口が正面に。そして『哈尔滨 旧ヤマトホテル』を訪ねた。『龙门贵宾楼酒店』哈爾浜駅前に位置する、かつては満鉄が経営したヤマトホテルで、もっと以前は東清鉄道(ロシアが満州支配していたときの満州北部の鉄道)の直営ホテルだった建物。ステンドグラスの如き美しい色合いの車寄せの屋根。1903年(明治36年)、ハルビン駅前に東清鉄道ホテルとして建てられた。日露戦争が勃発するとロシア軍の野戦病院や軍司令部として使用され、終戦後はロシア軍将校クラブ(1907年~)、中東鉄路理事会館(1921年~)として使用された。1935年の北満鉄路買収により満鉄の所有となり、1937年(昭和12年)2月1日に客室数56室(浴室付き45室)のホテルとして開業。この改修工事は北満鉄路技師のスピリドフ・セルゲーウィチが担当した。戦後は哈爾濱軍事工程学院、鉄路医院を経て1968年よりハルビン鉄路局招待所として使用されたが、1996年にハルビン鉄路局が経営するホテル龍門大厦に統合・改修され、1997年より龍門大厦貴賓楼として営業している。『歴史建築』旧東清鉄路管理局旅館、旧ロシア哈尔滨領事館。1901年建設開始、1903年落成。正面入り口。内部の回転ドア。回転ドアの前からロビー正面を。ロビー正面に見える大理石の階段。当時の写真。ホテルロビーの左右とチェックインカウンターにホテルの歴史資料が多数展示されていた。東清鉄道ホテルとして落成されてから、哈爾浜鉄道局による経営による現在まで114年の歴史を誇り、1937年から1945年はヤマトホテルであった。歴史資料写真をズームで。当時の名だたる宿泊者の写真であろうか?1937年、愛新覚羅溥儀の弟、溥傑(ふけつ)は日本人女性、嵯峨浩(さが・ひろ)と結婚したのだ。(ピンボケですいません)日本人の結婚式の写真。ホテル内にあった模型で当時の様子を再現したもの。別の角度から。ホテル内通路。ヤマトホテルの大食堂。現在の名前は伏爾加饗庁。壁の絵画。バーラウンジとカウンター。廊下は、アカデミー賞受賞映画「ラスト・エンペラー」をほうふつとさせるような雰囲気。再び回転ドアを内側から。一度、宿泊してみたいホテルなのであったが・・・。そして隣りにあった小さな建物の上には巨大な樽が2個鎮座していた。                              ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・ 2019.07.06 コメント(2)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:2日目(6/20-2)          ハルビン(哈尔滨):松花江岸早朝散歩(その2) 前方左側手前に松花江に架かる『濱州鉄路橋(ひんしゅうてつろきょう)・松花江鉄橋(しょうかこうてつばし)』そしてその後ろに『松花江大橋』が。松花江岸には多くの釣人が。『松花江大橋』を渡る中国・新幹線。在来線も通過。川岸の遊歩道にあったのはトナカイの像であろうか?白は冬の氷祭りを意識したものであろう。船上レストランと日本では余り見かけない巨木の柳並木が続いていた。振り返ると巨大な噴水の最頂部まで虹が上昇していた。こちらは白鳥か?『濱州鉄路橋・松花江鉄橋』。濱州鉄路橋は1900年から建設が始まり1901年に完成した。1027mの長さがあり、東清鉄道で最も長い橋梁であった。2014年4月に哈爾浜-斉斉哈爾間高速鉄道の橋梁・松花江大橋が完成し、鉄道橋としての使命を終えた。2016年には中東鉄路公園とともに歩行者専用橋として整備された。鉄橋を支える石の橋台は日本人によって作られ、鉄材はワルシャワから運ばれたと。石が上流方向にやや突き出ているのは、春先の流氷への対応であると。美しい姿の隣の『松花江大橋』。鉄橋を支える石の橋台は日本人によって作られ、鉄材はワルシャワから運ばれたと。当時の国際都市ハルビンを彷彿させるのです。石が上流方向にやや突き出ているのは、春先の流氷への対応とのこと。『濱州鉄路橋』へ上がる階段が前方に。『濱州鉄路橋』へ上がり鉄路橋を対岸に向けて歩く。線路が敷設されている中央が遊歩道となっており、両側には自転車や小型バイクが通れるようになっていた。歩道の途中には休憩、展望用のベンチも設置されていた。鉄橋のたもとの説明板には、この橋『満州鉄路橋』・松花江橋梁はについて次のように記されていると。元は中東鉄道西部線(浜州線)の第一鉄橋。中東鉄道沿線では橋脚幅が最大の単線の鉄橋。当時は「第一松花江大橋」と呼ばれていた。ロシアの橋梁専門家、中東鉄道局橋梁主任技師「リエンドフスキー」が自ら監督し、技師「アリエクシエルオフ」が建設の責務にあたった。1900年5月着工。1901年10月開通。鉄橋の長さ949.185メートル。鉄橋の石の橋台に「1900」という数字が見えます。この橋の建設が始まった1900年を指します。ウラジオストク→綏芬河(すいふんか)→ハルビンと続く東清鉄道は、この鉄橋で松花江を渡り、さらにチチハル、満州里、チタ、そしてモスクワへと続いて行ったのだと。東清鉄道で最も長い橋梁であった。2014年4月に哈爾浜-斉斉哈爾間高速鉄道の橋梁が完成し、鉄道橋としての使命を終えた。2016年には中東鉄路公園とともに歩行者専用橋として整備された。1901年当時の建設写真。こちらも同様。竣工時の写真。美しい曲線美の、隣の『松花江大橋』。1910~15年の写真。1940年当時の写真と戦後1962年の解体途中の写真。『松花江』の上流側を見る。『松花江』はアムール川最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(朝鮮語名:白頭山)の山頂火口のカルデラ湖(天池)から発し、原始林地帯を貫き吉林省を北西に流れ、吉林省長春の北で伊通河が合流する飲馬河をあわせて松嫩平原に入り、白城市(大安市)で嫩江をあわせて北東に流れを変える。嫩江合流までの松花江は、満州国時代から1988年までは第二松花江と呼ばれていた。この区間は長さ795km、流域面積78,000平方kmである。嫩江の長さ1,370km、流域面積290,000平方kmよりも小さい。嫩江合流後、しばらく吉林省と黒竜江省の境の東北平原を流れてから黒竜江省に入り、ハルビン市街区のすぐ北を流れる。その後牡丹江などの大きな支流をあわせて三江平原の湿地帯に入り、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流する。長さは1,927km、流域面積は212,000km2である。冬季は凍結し、春になると雪解け水によって最大流量に達する。松花江の長さは、中国で3番目、①揚子江、②黄河、③松花江であると、後に現地添乗員の王さんから。『松花江』の上流側手前を見る。右岸にはハルビン市街の高層ビル群が林立している。『濱州鉄路橋』の途中には透明なアクリル板で松花江の水面を見下ろせる場所も。そしてこれから先は鉄骨部分は全て撤去され、線路面のみが歩道として復元されていた。我々もこの場所までとし、引き返したのであった。対岸は満州里方面。鉄骨部分の美しい影が水面に。旅友と記念撮影。『松花江大橋』の下部からは2010年全線開通した『松浦大橋』が見えた。松浦大橋は全長4.027キロメートル、双方向8車線で両側には幅2メートルの歩道も設置されているとのこと。斜材ケーブル108本から構成される「逆扇型」の二面ケーブルは、橋主体の476メートルの鋼コンクリート合成梁、橋主体の橋面、橋の最大積載車輌を合わせた合計3万トンの重量を支えており、268メートルのメインスパンは中国の大規模な斜張橋としては第8位に位置すると。この日は流れも静かで多くの中洲も姿を表していた。先頭の電気機関車が。そして『和谐』の文字が。最後尾。『中東鉄路・橋梁篇』。東清鉄道(とうしんてつどう)はロシア帝国が満洲北部に建設した鉄道路線。満洲里からハルビンを経て綏芬河へと続く本線と、ハルビンから大連を経て旅順へと続く支線からなる。時代に合わせて中東鉄道、東支鉄道、北満鉄路あるいは北満鉄道と呼ばれていた他、ロシア側でも呼称は数度変更されている。『濱州鉄路橋』を引き返す。線路横の屋根は、この奥の高層住宅の防音対策であろうか?旧鉄橋の地上部分も『中東鉄道公園』になっていた。ここでは「滨(濱)州鉄路橋」と記されていた。浜州とは、「哈爾浜」と「満州里」のことで、現在は2つを「滨州線」が結んでいるのだと。昔の駅の再現。駅の先には『滨州鉄路橋』が復元されていた。列車を待つ人々の姿の像。ベンチに座り列車を待つ母子像。『中東鉄道公園』内に展示されていたのが『黃継光号』その後ろに、ハルビン駅を模した『中東鉄路印象館』の姿が。名前は新中国の国民的英雄-『黄継光』から1956年に命名。『中東鉄道公園』紹介の石碑。中国語、英語、ロシア語で説明されていたが日本語はなかった。とりあえず英語版を撮影したが・・・・。『中東鉄路紀念塔』正面から。『兆麟公園』入口。友誼路のバス停の時計は未だ7:30過ぎ。『哈尔滨市江沼小学校』の正面。ホテルに戻り朝食会場へ。バイキング方式の朝食を楽しむ。時間は7:45。饂飩の如きものも。                                                           ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・ 2019.07.05 コメント(3)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:2日目(6/20-1)          ハルビン(哈尔滨):松花江岸早朝散歩(その1) 『中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅・2日目は5時前に起床。日の出の時間は4時前で、窓のカーテンを開けて外を見る。この日も晴天、時間は5:20。ヨーロッパの宮殿の如き建物は、松花江(しょうかこう)ロープウェイ乗り場の建物。5:30に部屋を出て松花江岸の早朝散歩に旅友Sさんと向かう。部屋の前の通路。中央大街では早朝から清掃の方々の姿が。この後の中国国内の朝の清掃作業には驚きの連続なのであった。KFC(ケンタッキー・フライド・チキン)の店。松花江に近づくに連れて高層ビルも目だって来た。右手に『哈尔滨市江沿小学校』。場所は哈尔滨市道里区中央大街西头道街57号。石畳も一旦ここで終わっていたが。前方に『人民防洪勝利記念塔』が僅かに姿を現す。『歩行街』を友誼道に向かって歩く。友誼道の下の地下道を進む。地下道の階段を上ると正面に見えたのがスターリン(斯大林)公園内の『人民防洪勝利記念塔』。1958年に建設された記念塔。13mの円柱塔と7mの古代ローマ式半円形回廊からなり、塔の底部には11の半円形の溜池がある。1956年の大洪水と闘った全市民の功績を称えたもの。塔の頂上には農民や職人、知識人が心をひとつにした勇ましい様子を表現する彫像が飾られていた。『哈爾浜市不可移動文物 哈爾浜市人民防洪勝利紀念塔』。塔の根元を取り巻く段々になった池があって、赤い線と文字が出ているのを見つけた。それぞれの池の高さが、1932年と1957年の松花江の洪水の高さだと。下の池の高さが1932年8月12日の洪水の水位、その上の池の高さが1957年9月6日の洪水の水位であったと。そして更にその上には、1998年8月22日の洪水の水位120.89mが、その時の最高流水量16600m3/sと表示されていた。『人民防洪勝利記念塔』を取り囲む噴水広場。中国の黒竜江省の中心都市、哈爾浜(ハルビン)市を流れる松花江(しょうかこう)(ソンホワチアン)の南岸沿いに広がる、幅50m、緑豊かな全長1750mの細長い公園。1953年に建設された。園内には、松花江に沿って続く遊歩道があり、彫塑(ちょうそ)が配置されている。この公園では、夏はボートや釣り、冬は凍結した松花江でのスケートが楽しめると。斯大林(スターリン)公園。元々は『江畔公園』という名だったロシアと仲が悪くなった後でもそのままの名前というのが中国らしい?松花江(しょうかこう)と100年の歴史を持つ松花江鉄橋(旧橋)の隣に松花江大橋が架かる。冬季には-30℃にもなり完全凍結し真っ白な世界に変身する『松花江』であると。ズームで。上流側を望むと松花江を渡る観光ロープウェイ・「松花江索道」の姿が。江岸から『人民防洪勝利記念塔』を見る。川の中には大きな噴水が1本。早朝水泳を楽しむ人の姿が。対岸の松花江の中洲の太陽島にあるロープウェイの駅のある建物。船上レストラン。こちらの船上レストランには中国国旗がはためいていた。いずれも太陽島への渡し船乗り場も兼ねていた。幼児の像と早朝ダンスを楽しむ人々の姿が。緑道下には江畔のレストラン。別の早朝ダンスのグループ。踊る像。緑道は早朝からモップで清掃されゴミひとつ落ちていなかった。渡し船乗り場。皆さん楽しそうに音楽に合わせて。三角屋根の江畔餐庁。対岸の白き橋。屋外で卓球を楽しむ人々。私もやりたかったが・・・・・。白き花が。クマノミズキの花であろうか?こちらは体操のグループであろうか?斯大林街沿いにあった『哈爾濱友誼宮賓館』裏口近くにあった門。『友誼門』と書かれた扁額。中心街から約3km、松花江程近くに建つホテル。緑の瓦屋根は故宮を思わせる外観。正面は『哈爾浜友誼宮西餐庁』。こちらは裏側であるようだ。友誼宮はホテル、結婚式場、宴会場等を揃えた大きな建物です。建物は友誼路から大堂、主楼、後ろが西餐庁、右に迎賓楼、迎賓閣、左に四季庁、貴賓楼、友誼会堂。多くの建物を持っています。後ろの庭園の先には友誼門があり、その先は松花江が流れています。歴史建築は1956年建と比較的新しくバロック建築で無く方中国伝統建築風格です。鉄筋コンクリ柱梁煉瓦造り、珍しい建物です。こちらが正面。【https://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g297433-d455933-lReviewHarbin_Friendship_Palace_Hotel-Harbin_Heilongjiang.htm】より『友誼会堂』。そして前方右にこちら側の松花江索道(ロープウェイ)の駅のある建物が。ロープウェイのゴンドラ入口を見上げる。まだ運転は開始されていなかった。時間は6:04。そして見上げると、松花江方面から巨大な白き噴水が。噴水の高さは50m近く上がっているであろうか?早朝から花壇に花を植える方々。6時前からこの日の仕事が始まっているようであった。ベコニア、マリーゴールドの植え付け中。見事なモニュメント。本物の植栽ではなさそうだが。『一帆風順(いっぽう ふうじゅん)』の文字が。意味:ひとたび風を受ければ全て満帆となる。解釈:今が悪くても悲観せずに風が満ちるのを待とう。   また、ただ待つのではなく、自分から働きかけよう と。噴水の飛沫が風に流されてこちらに。歩いて行くと虹が姿を表した。『人民防洪勝利記念塔』前まで戻る。この噴水広場も、散水車が走り清掃中であった。虹の位置が次第に移動し、噴水の柱から曲線状に。ズームで。虹を追いかける。『少先隊員之歌』と題した作品。『少先队呙之歌』。「少先」とは少年の意であろうか?                              ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・ 2019.07.04 コメント(1)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:1日目(6/19-4)           ハルビン(哈尔滨):中央大街夜景~ハルビン駅(哈爾浜站) ​更に中央大街の夜景を楽しみながらハルビン駅方面に進む。『東風街』。黄色い三角屋根が付いた建物がデパート『中央商城』。『中央商城』。ハルビンといえば、毎年1月から2月まで氷祭りが行われ、雪像や氷の彫刻などが展示されることが知られているが、これは氷ではなく人工水晶の像であるようだ。『金安国際デパート』。『現・大安商厦』1階は有名な餃子屋さん?『旧ユダヤ国民銀行』。1923年造のルネサンス様式。『霞曼街』。『現・松雷国際商厦』雰囲気のあるドーム屋根であるが改装工事中。パトカーであろうか?『黒天鵝生活館』。人出もかなり増えてきていた。『旧協和銀行』。1917年。マンサード屋根のあるフランス・ルネサンス様式。噴水の後ろに『LOVE』の文字が。『L​❤​VE』。『人民同泰』薬店。1921年の建物。現在は「薬」の名前だけを残したデジタル機器、カメラなどの店になっている模様。『旧アグロフ洋行』所在地:中央大街21号  竣工:1923年地上3階建であったが、1951年に増築され4階建となった。木骨レンガ造りの折衷主義建築。『旧ハルビン市公署』。所在地:中央大街32号。夜の石畳を再び。『中央大街』入口ゲート。经纬街のロータリーに在った照明モニュメント。様々な色と模様が次々と。横断歩道を渡るとアメリカンチェリーを売る出店が。そして暫く歩くとハルビン駅が姿を表した。『哈爾浜』の文字も。時間は20:38。『哈爾浜站』。ハルビン駅は、中華人民共和国黒竜江省ハルビン市南崗区にある駅。以前は松花江駅と呼ばれ、通称は秦家崗駅である。ハルビン西駅と並ぶハルビン鉄路局管内の特等駅である。『哈爾浜・HARBIN RAILWAY STATION』。北広場から『哈爾浜站』正面を。黒竜江省の省都の駅、立派な駅舎だ。ハルビン市の人口は1064万もあるそうだ。『哈爾浜站』構内。中に入るといきなりセキュリティーゲートがあり、これ以上は利用客以外は入れないのであった。翌早朝の出発便の案内であろうか?そして北口広場脇の『伊維尔教堂』ズームで。こちらは駅の西側で、地図によると『安重根義士記念館』は東側。どうにも『哈爾浜站』の東側に回る道が見つからないので諦めて戻ることに。『中央大街』入口門ゲートまで戻る。『中央大街歴史文化街区 保存建築分布図』。屋台のオネイサンも頑張っていました。ショッピングエリア・『EURO PLAZA』。再び雪の結晶を。再び『中央商城』。満月が上空に。『天鵝之恋』と第する人工水晶の像。「鵝」はガチョウのこと。並木のイルミネーションを楽しみながらホテルに進む。赤➡青➡緑➡白と変わっていくLED。『モデルンホテルハルビン(哈爾濱馬迭爾賓館)』。そして21:30過ぎにホテルに到着。その後、成田空港で購入したウィスキーでこの旅行初日の反省会を行い、爆睡。                              ・・・​もどる​・・・                  ・・・​つづく​・・・​​​ 2019.07.03 コメント(2)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:1日目(6/19-3)          ハルビン(哈尔滨):中央大街 『旧ラヴィノヴィキ大楼、旧遠東銀行』。所在地:中央大街111号竣工:1949年 折衷主義建築。『塔道斯西餐厅』。ハルビンで最も初期のロシア風西洋料理で、100年の歴史を持つ有名な白人レストラン。現在『塔道斯西餐厅』には多くの店が入っている模様。『中国建設銀行』は現代の建物か?『联谊饭店旧址』1907年建設。 黄金の像。場所:中央大街127。『P.A.ベルクウェキ(Birkwiky)ビル』。『歴史建築』1907年建設、1915~1920増築。右手が「西三道街」。今宵の宿・『金谷大厦』が見えて来た。西四道街入口の『中植大酒店』。1924年建設の『旧華栄』ビル。屋根には三体の黄金像が。西三道街入口の『中我商品城』。『金谷大厦』。西ニ道街角・『金谷大厦』前の建物は新しい建物か。白とピンクの高層マンション。『中央大街』の散策を終えバスに乗り夕食会場へ。右手に宿の『金谷大厦』が見えた。『兆麟公園』入口。『中国农业发展银行』ビル。旧日本人学校『桃山小学校』中央大街から東へ数百mの場所にある兆麟公園に接して「兆麟小学校」が建っていた。ここは1923(大正12)年に旧南満州鉄道と在住日本人の出費によって建てられた日本人学校「桃山小学校」だったところ。今も立派な正面玄関の建物が保存されていた。そしてロシア料理の夕食の店へ。泡の殆ど出ないハルビンビールを楽しむ。肉入りシチュー・ボルシチ。銘々皿に取り分けて。ブロッコリーのクリーム煮。そしてホテルに向かってバスは走る。漸く暗くなってきた。時間は19:05。そして今宵の宿・『金谷大厦』に到着。フロントロビーの壁の彫刻モニュメント。ホテルフロントロビー。そして9Fの我々のツインの部屋。窓からの夕景。街にも灯りが灯り始めた。そしてしばしの休憩後に夜の『中央大街』の散策に向かう。オレンジ色にライトアップされた歴史ある建物が続く。まだまだ店舗は営業中。『金太阳购物广场・Golden Sun Shopping Plaza』。『スポーツショップ』。スポーツブランドが集まるビル。『乔丹』はマイケル・ジョウダンのこと。サックスを奏でるストリートミュージッシャン。ズームで。『旧ハルビン市役所』。『中国建設銀行』。『西六道街』。再び先ほど見たバイオリンを奏でる女性たちの像。ネオンも益々カラフルに。馬迭爾賓館付属劇場の建物の側面。並木には様々な色に変わる電球が。『馬迭爾賓館(MODERN HOTEL)』。石畳の路面にも雪の結晶の如き模様が動きながら。                               ・・・​戻る​・・・                  ・・・​つづく​・・・ 2019.07.02 コメント(0)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:1日目(6/19-2)           ハルビン(哈尔滨):聖ソフィア大教堂~中央大街 ハルビン市内観光の最初の訪問場所・聖ソフィア大教堂に向かってバスは進む。「北麟街」と「北头道街」の交差点付近。 ホテル『王府井泛乐城』。『聖ソフィア大教堂(中国語: 圣·索非亚大教堂)』に到着し見学開始。住所:88 Toulong St, Daoli Qu, Haerbin Shi, Heilongjiang Sheng, CHINA 150010(中国語: 中華人民共和国黑龙江省哈尔滨市道里区透笼街 索菲亚教堂)聖ソフィア大教堂(中国語: 圣·索非亚大教堂)は、ハルビンにあるロシア正教会の聖堂。1903年3月に、東清鉄道が開通すると共に、ロシア帝国の軍隊はハルピンに侵入した。1907年に聖ソフィア大聖堂は帝政ロシアの兵士の軍用教会として創建されたと。1923年9月27日に、再建儀式を行い、それから約9年間に渡る拡張工事が行われ、今のような絢爛豪華で精緻な建築になったのだと。ハルビンを象徴するロシア建築であると。中国の中に西洋風の大聖堂、しかも屋根の形などは確かにロシアっぽい。聖ソフィア大聖堂はビザンチン様式の影響を受けた建築物と言われています。この聖ソフィア大聖堂の写真だけ見せて「どこの国?」と聞けば「中国」と答える人より、「ロシア」と答える人の方が多そうなイメージが。高さ53.35メートル、建築面積721平方メートルあり、典型的なビザンチン建築の一つ。現在の煉瓦建築になったのは1932年と。1996年11月に、この聖堂は中国重点文物保護文化財に指定された。1997年6月に、修復された聖ソフィア大聖堂はハルピン市の「建築芸術館」として公開中。聖ソフィア大教堂の横奥のホテルの建物?にも玉ねぎ型ドームが。聖ソフィア大教堂(中国語: 圣·索非亚大教堂)の中国語の説明板。教会内はハルビン市建築芸術館として公開されており、「東北のモスクワ」、「東方のパリ」とも呼ばれていると。ロシア特有の玉ねぎ型『クーポラ』。その他に「玉ねぎドーム」「クープ」「クーポル」「葱坊主」「ルーコヴィッツァ」などとも呼ばれている。玉ねぎ屋根は、ロシアの教会の典型的かつ独特なフォルムはどこから生まれたのか。これは、イスラム・モスクの屋根を真似たもの、ローソクの炎型をイメージしたものなど諸説あるが、西洋の教会建築の流れを汲んでいるという説が有力。ビザンツ(ビザンティン)からの建築技術は、宗教の布教活動とともにロシアにも浸透。屋根はドーム型にする(天国の象徴)というビザンツの建築スタイルを教会にも踏襲、ドーム型の屋根を持つ教会が建築されるようになったのだと。広場横の石製の街路灯の下部の彫刻プレートと聖ソフィア大教堂(動画から切り取り)。立派な石製の『街路灯』。鉄骨製のモニュメント『塔廊』。聖ソフィア大教堂の天井からは大きなシャンデリアが吊り下げられているのだと。これは外に展示されていた写真パネル。天井ドームを見上げた姿であると。こちらも写真パネル。哈尔滨市道里区の『透笼街』。バスの車窓から『中國太平保險控股有限公司』のビル。高層マンションの屋根にも玉ねぎ型『クーポラ』が。そして次に繁華街である『中央大街』の中央付近に位置した『馬迭爾賓館(MODERN HOTEL)』を訪ねた。モデルンホテルハルビン(哈爾濱馬迭爾賓館)は1906年に建てられたフランスルネッサンス建築の建物を使用したオールドホテル。レストランの他、プール、テニスコートなど施設もそろっているのだと。ホテルの内部に入る。通路の両側には様々な歴史物が陳列されていた。モデルンホテルハルビン(哈爾濱馬迭爾賓館)は1906年にロシアのユダヤ人『Joseph Caspe(ジョセフ・カスペ)』によって創立開業。Joseph Caspe夫人・マリア。クラシックなホテルの雰囲気がいたるところに。ホテル開業当時に使われた大きな古時計。日本でも知られている『郭沫若』氏の写真。文学者・歴史学者・政治家として日本と中国の架け橋となる活躍をした人物。昭和3年から約10年間にわたり、市川市の須和田で家族とともに暮らしたのだと。「郭沫若」の他にもエドガー・スノー、溥儀、14世ダライラマ、宋慶齢などの著名人も宿泊したことがあるとのこと。レストランには多くの客が。このホテルは、フランスのアールヌーボー様式の建築様式に属し、全体的な形はシンプルではっきりしており、窓、バルコニー、欄干の壁、ドームの姿は非常に豊か。『馬迭爾賓館(MODERN HOTEL)』の正面玄関。レストラン入口も兼ねているようであった。『全国重点文物保护単位(ぜんこくじゅうてんぶんぶつほごたんい)』全国重点文物保護単位は、中華人民共和国の文化遺産保護制度の一つ。中華人民共和国国務院が制定した文化遺産保護制度のうち、国家級の文化遺産に対して制定される名称。現在4296件がリストされていると。そして「黒竜江省級文物保护単位」でもあると。『馬迭爾賓館(MODERN HOTEL)』の向かいには『旧・マルス、現・華梅西餐庁』が。所在地:中央大街112号木骨レンガ造り・折衷主義建築風格。かつて「カフェ・マルス」という喫茶店だった建物が、 現在「华(華)梅西餐厅(庁)」(Huá méi xī cān tīng)という名で ロシア料理レストランになっていた。ロシア料理店、朝焼き立てのパン、ボルシチが美味しい店とのこと。1925年に建設の建物なのであろう。中央大街には多くの観光客が。右手が『西七道街』。馬迭爾賓館劇場の建物の側面。『中央大街』を松花江に向かって歩く。中央大街(ちゅうおうたいがい)は、中華人民共和国黒竜江省ハルビン市道里区にあるハルビン市役所公認の、アジア最大の石畳の目抜き通り。ロシア統治時代は「中国人街」(ロシア語でキタイスカヤ)と呼ばれた。南北の直線の通りで全長1450m・幅21.34m(内、車道の幅は10.8m)。南端は経緯街(十字街)、北端は松花江防洪記念塔。ロシア統治時代の建築物が数多く残され、「東方のパリ」とも称される西洋風の街並みが一直線に北の松花江に向かう。道をはさみ、欧州風建築物が建ち並び、その数は71棟。ほかに、ルネサンス式、バロック式、折衷式など中国でも珍しい多種多様な市指定建築物が13棟、保護建築は36棟ある。現在の花崗岩で敷き詰められた道は1924年に建設されたものである。その後も改築が重ねられ、現在は中心通りは歩行者天国となり、その後の中国の都市の通りの手本となった。西七道街にあった『馬車の像』。観光客が幼児を乗せて記念撮影にTRY中。国に関係なく、いずこも同じ心温まる光景。「中央大街」、「西七道街」の案内表示板。中央大街に繋がる東側の道は、松花江川から「西頭道街」~「西十五道街」まで順番に名付けられていた。しかし中央大街の東側の道であるが何故か『西』の頭文字が。『西』に進むと中央大街に出ることが出来るからか?『馬迭爾賓館(MODERN HOTEL)』を振り返る。紅専街の角にあったのが日本人水上俊比左開業の『旧松浦洋行』(現新華書店)。旧松浦洋行は、ハルビンの中央大街の真ん中辺りに建つかつての日系商社。1918年の竣工。中央大街では目立つ5階建て。赤いドームも目を引いたのであった。中央大街では唯一の旧日系ビルとのことだが、設計はロシア人建築家であると。木骨レンガ造り、優美なバロック様式。この旧松浦洋行、NHKの「世界ふれあい街歩き」で紹介されたのを見た記憶が。目についたのは、様々な彫刻が作されていたシンメトリーのコーナーファザード。コーナーに正面玄関を設け、上部にテラス、真鍮?の手摺が。両脇には縦長の窓がリズミカルの並んでいた。裸婦が俯いて。こちらの男の像も下を俯いて。下から見上げることを意識して制作されたのであろう。『歴史建築』『中央书(本、書)店』。絵を書く画家とその絵を見つめる婦人の像。中央大街の光景が描かれていたのであろうか?そしてその後ろに金色に輝く椅子。細かな幅10.8mの石畳が続いていたのであった。ロシアのエンジニアKomtrachokが1924年5月に設計し監督し、通りのための正方形の石を舗装。石は花崗岩で刻まれ、幅10cm、長さ18cmであると。緑の建物は『旧秋林洋行道里支店』『歴史建築』。もともとはフランス籍ユダヤ人サムソノフスキー兄弟の創設した商会であったが、1915年、南崗区にある秋林商行で大成功を収めたロシアの富豪イワン・チューリンが買い取り、秋林洋行道里支店を開設した。1937年以降は何度かオーナーが変わったが、それ以降1945年以前はソ連が管理し、1953年に中国に移管された。『全国重点文物保护単位』そして『哈爾浜市文物保护単位』。『西六道街』。左手に『遠東銀行』、建1919年、木骨レンガ造り・折衷主義建築風格。楽器を奏でる像。雨がポツポツと降り出して来た。『旧万国洋行』。黄色が目立つ『旧万国洋行』。『歴史建築』。1922年建設。木骨レンガ造り・折衷主義建築風格。雨の合間に、西五道街にあった『旧ユダヤ病院』に。現在はハルビン市眼科医院であるようだ。                             ・・・​もどる​・・・                   ・・・​つづく​・・・ 2019.07.01 コメント(2)
  • 『旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:1日目(6/19-1)          往路:自宅~ハルビン(哈尔滨)空港へ ​​​​​​【海外旅行 ブログリスト】​​​👈​リンク​​6月19日(水)から8日間の旅程で、いつもの旅友Sさんと『中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ行ってきました。『中国・東北地方』とは『旧満州』地域のこと。日本で満洲と呼ばれる地域は、満洲国の建国時の地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲。この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てているのです。今回訪ねた都市は、ハルビン(哈爾浜)、長春(旧新京)、瀋陽(旧奉天)、丹東(旧安東)北朝鮮国境を流れる鴨緑江に架かる鴨緑江断橋、大連、旅順。旅友Sさんがいつものように朝8時前に我が家に愛車で迎えに来てくださいました。そして国道1号線に出て、戸塚料金所から横浜新道に入る。左手の首都高速方面に進む。狩場本線料金所を通過し首都高速神奈川3号狩場線方面へ。左手前方に横浜ベイブリッジが見えて来た。鶴見つばさ橋を通過。左手に羽田空港・新管制塔が。2010年に供用が開始されたD滑走路は、旧管制塔(背の低い方)からかなりの距離があるため発着する飛行機を視認しづらくなり、さらに高い管制塔が必要になった。そこで同年、現在の新管制塔が完成。その高さは約115.7メートル。首都高速湾岸線・習志野本線料金所を通過。そして東関東自動車道・成田空港ICにて降りる。成田空港第1ターミナルに向かう。成田国際空港第1ターミナルが見えて来た。時間は9:45過ぎで自宅から2時間弱で到着。そして待っていてくれた駐車場係員に車を預けターミナル内に。集合場所は、第1ターミナル4F出発ロビー北ウィングGカウンター。10時にカウンターに行くと既に添乗員の方が待っていてくれた。そして阪急交通社受付カウンターで今回の添乗員の男性から説明を受け、eチケットとその他書類そしてガイドレシーバーを受け取りチェックインカウンターへ向かう。添乗員の男性は鹿児島出身のMさんで、なんとなく山路徹(やまじ とおる)に似ていたのであった。実際の年齢を後で知りました(無理やり聞いた!!)が、10歳近くは若く見えたのであった。山路 徹は、日本のジャーナリスト。株式会社APF通信社代表取締役。 元妻はタレントの大桃美代子。前妻はタレントの麻木久仁子。この他、大桃との結婚前にも一般女性との結婚歴があると 「ウィキペディア」から。今回のフライトの「中国南方航空」チェックインの長蛇の列に並ぶ。チェックインカウンター。そしてスーツケースを預け、チェックイン完了し、搭乗チケットを入手。円を中国元に両替した後、出国カウンターへ。手荷物検査(Security Check)、出国審査(Immigration)も無事通過し搭乗ゲート14番へ。FLIGHTは中国南方航空12:50発CZ-6086便のハルビン(HARBIN)行き。機種はエアバス321、飛行時間は3時間と。この時点の現地の天気は雨との情報。利用する飛行機が到着。そして乗り込み定時過ぎに出発。座席は主翼の上ながらも窓側の『45A』この日の成田空港は晴れ間が。そして離陸後1時間も立たずにビールが到着。最初はビールはないとCAから言われたが、なんとか1本GET。国際便を利用して、ビールがないと言われたのは初めてでビックリ!!そして質素?な機内食が出てきた。そして日本海を横断しロシア領に向かって機は進む。この日の飛行コースをスマホから。ロシア領上空から進路を西に変更し、中国領土上空を長春方面に向かう。ウラジオストック手前で日本海に浮かぶ島が見えた。機窓からの景色を楽しむ。エアバスA321の翼端の立った部分・ウィングレット(winglet)。「中国南方航空」の文字も確認できた。松花江の流れが下方に見えて来た。そしてハルビンの街並みが現れた。高層マンション群。蛇行して流れる松花江。住宅街。郊外には緑が拡がる。飛行場横の住宅街。そしてハルビン太平国際空港(ハルビンたいへいこくさいくうこう、中:哈尔滨太平国际机场)に着陸。時間は現地時間16:10前。1979年に開港。1998年5月28日 : 拡張後の国の検査に合格し、ハルビン閻家崗空港(中文表記: 哈尔滨阎家岗机场)からハルビン太平国際空港に名称変更。管制塔。右手にもレーダー受信設備のついた管制塔?も。駐機場所に向かって進む。ターミナルビルには『哈尔滨』の文字が。飛行機からバスにての移動となった。タラップを降りバスに乗る。再びターミナルビルが。そして指紋登録のある入国審査(Immigration)もなんとか完了し、トランクを受け取り待っていてくれた現地添乗員と合流。マイクロバスに乗り駐車場を出て、初日のハルビンの市内観光へ向かう。時間は17時前。今回の参加者は総勢11名、ご夫妻1組、女性単独参加者4名、女性2人参加1組そして男性単独参加者1名そして我々男性2名参加であることが、この後に解ったのであった。平均年齢は、少なくとも私より上であることは間違いなし。よって女性優位のシルバー(シニア)ツアーなのであった。中には満州・ハルピンで生まれた方もいらっしゃったのであった。マイクロバスのフロントガラス越しにハルビンの『机場高速道路』を。「哈爾浜欢迎您(ハルビンにようこそ)」の文字が迎えてくれた。木々を刈り込んで作ったが如き見事なモニュメントが道路脇に。像のモニュメントも歓迎してくれた。高層アパート群。中国の車のナンバープレート。『黒』は黒竜江省(こくりゅうこうしょう):直轄市・省・自治区を示す1文字の漢字『A』はハルビン市(哈爾浜市):直轄市・省・自治区内のエリアを示すアルファベット1文字最後に『5桁の数字またはアルファベット1文字+4桁の数字』であると、後に現地の添乗員から。そして工事中の高架橋脚の支保工と足場パイプ。以前は竹や曲がった丸太が用いられていたが、この日に見たのは細いながらも真っ直ぐな金属パイプであった。​​                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.30 コメント(2)
  • 堀切菖蒲園へ(その2)、そして堀切十二支神、菖蒲七福神 さらに、堀切菖蒲園の散策を続ける。豪華な花ですので肥後系の菖蒲だったでしょうか?こちらは花びら中央部に向かって細い筋模様がある。 花びらの中央部は、 めくれ上がる。 葉っぱは幅広で、 筋は無く、ほぼ平坦。「この7番目は今年3年目で株分けの圃場です。」「紅姫(肥後)」「この12番目は今年2年目で株分けの圃場です。」堀切菖蒲園の後ろには綾瀬川沿いに走る「首都高速中央環状線」が高架で。『​菖翁花​👈リンク』。江戸時代後期、花菖蒲の発展に大きな功績を残したのは旗本、松平左金吾定朝(まつだいらさきんごさだとも)。自らを「菖翁」と名乗り、60年にわたって花菖蒲の改良と新品種の作出に情熱を傾けた。菖翁により作出された花を「菖翁花」というと。120種の品種が作出されたようですが、現在は17種前後が現存するのみとなっています。戦前の品種は江戸古花と呼ばれ、今でも明治神宮御苑を始め各地の花菖蒲園や個人で大切に保存されています。堀切菖蒲園では、品種の保存と江戸情緒の創出に役立てるため、現在も菖翁花の名を引き継ぐ、10種余りの栽培管理をおこなっています。ヘメロカリス。ヘメロカリスは初夏から夏にかけて次々と花を咲かせる多年草で、日本にはニッコウキスゲやノカンゾウ、ヤブカンゾウが自生し、古くから親しまれています。暑さ寒さに強いうえ、土壌もあまり選ばず、植えっぱなしでよく育ちます。ズームで。『渡辺千秋の歌碑』「ほりき里能 さとのあやめは  老いまつに ちよをちきりて  さ支さかゆら夢」「ほりきりの さとのあやめは  老いまつに ちよをちぎりて  さきさかゆらむ」天保14年(1843)生れ~大正10年(1921)没。 北海道庁長官、京都府知事、宮内大臣などを務めた。ノーベル化学賞を受賞した野依良治の曽祖父。再び『堀切菖蒲園』案内板。「10番、11番 圃場」「10番」再び「堀切菖蒲園」配置図。ここにも「花菖蒲の系統」。「ハナショウブ、アヤメ、カキツバタの違い」。3つとも“アヤメ科”アヤメ属に属しています。だからとてもよく似ていて見分けにくいことは確か。・花菖蒲(ハナショウブ)は花の種類は多く紫系統の他に黄色や白、絞り等、多彩であるが どれも「花弁の根元のところに黄色い目の形の模様」がある。・カキツバタ(杜若)はあまり種類は多くないが、「花弁の弁の元に白い目型の模様」が あるのが特徴。・アヤメも花の種類は多くないが「花弁の元のところに網目状の模様」がある『花菖蒲番付』東横綱:春の海西横綱:水の光今年の『菖蒲まつり40周年』花菖蒲 人気投票結果東横綱:春の海西横綱:水の光五葉松。「歌碑 花菖蒲 かがやく雨の 走るなり」「中村汀女(なかむらていじょ)」の作であると。中村汀女は、1900年4月11日熊本県熊本市画図生まれの、昭和を代表する女流俳人である。再び西横綱:水の光。ズームで。もう一度、別の花を。「写楽」。濃い黄色い目の形の模様。マンションの住民が羨ましい。「鳳凰冠」「神代の昔」「遊女の姿」。『明治神宮御苑 花菖蒲』のポスター。こちらは「小岩 菖蒲園まつり」。そして『堀切菖蒲園』を後にし、再びアジサイを楽しむ。『堀切十二支神』擬人化された十二支がズラリと並んでいた。十二支とはご存知の通りに「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の総称で、年・月・日・時刻・方位などに利用されているもの。右から子・丑。我が干支の『虎』。右から寅・卯・辰。右から巳・午・未。右から申・酉・戌・亥。十二支の動物の上半身と、人の下半身を組み合わせて作られた半獣半人像なのであった。そして次に『しょうぶ(菖蒲)七福神 』。菖蒲七福神は、堀切の鎮守天祖神社の摂社 として大正12年に鎮座された毛無池弁天社はご神徳により永年弁天講を中心に氏子の 皆様から尊崇されていたが、平成6年6月に新に六柱の神をお迎えし、菖蒲七福神と して建立されたもの。 菖蒲園の「菖蒲」と勝ち負けの「勝負」と武を尊ぶ「尚武」などの意味が込められ、あえてひらがなで「しょうぶ七福神」。『しょうぶ(菖蒲)七福神 』左から『毘沙門天』、『寿老人』、『大黒天』。中央の『弁財天』。左から『恵比寿』、『福禄寿』、『布袋尊』。 2019.06.29 コメント(0)
  • 堀切菖蒲園へ(その1) この日・6月12日は、都内に行った折、足を延ばして堀切菖蒲園(ほりきりしょうぶえん)を訪ねました。堀切菖蒲園は、東京都葛飾区堀切二丁目にある葛飾区所管の公園(植物園)。花菖蒲の名所として知られ、京成電鉄「堀切菖蒲園」駅から徒歩約10分。駅前の線路沿いにある商店街を歩く。『2019葛飾菖蒲まつり』ポスターが期間:2019年5月27日(月曜日)から6月16日(日曜日)まで行われていた。案内に従い、堀切菖蒲園に向かって進む。『2019葛飾菖蒲まつり』の催し物案内ボード。更に商店街を進む。途中、アジサイも美しく咲いていた。青の美しいガクアジサイ。民家の庭にはウチワサボテンの黄色い花が。堀切二丁目緑道に咲いているアジサイを楽しみながら進む。この日が色のピークか?白のカシワバアジサイ。花の細かいアジサイ。青のガクアジサイ。そして『堀切菖蒲園入口』に到着。戦前まで、堀切には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった。昭和34年(1959年)堀切園を東京都が購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。昭和50年(1975年)葛飾区に移管され、現在に至る。貴重な江戸系花菖蒲を中心に200種6000株の花菖蒲が植えられており、見ごろは、この日の6月の中旬。堀切菖蒲まつりの期間は、地元住民・商店街・行政等による運営協議会によって、パレードなどのイベントが行われるのだと。また、公園内には食事(予約制宴会)ができる集会施設「静観亭」がある。堀切菖蒲園 案内図。「堀切菖蒲園」の歴史。・始まりには二説ある。 ・室町時代、堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じ、陸奥国郡山の安積沼から  花菖蒲を取り寄せて栽培を始めた。 ・江戸時代百姓の小高伊左衛門が趣味で各地の花菖蒲を集めて庭で栽培したのが始まり。・江戸時代には「江戸百景」に数えられ、名所案内や紀行文、鈴木春信、歌川広重の浮世絵に 登場する。・戦前まで、堀切には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった・1959年東京都が堀切園を購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。 1975年葛飾区に移管され、現在に至る。歌川広重「名所江戸百景」の第56景となる「堀切の花菖蒲(ほりきりのはなしょうぶ)」。前景を大胆に配した広重独特の構図で、ファンに人気の高い作品。「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。園内に入り菖蒲園の散策開始。「この1番は今年3年目で、株分けの圃場です。」株にはそれぞれ花の名前が表示されていた。白に紫の縁のある「長生殿(ちょうせいでん)」。白の花菖蒲「沖の波」。ズームで。一面に色彩豊かに咲き誇っていた。「この2番は今年2年目の圃場です。」「この3番は今年3年目の圃場です。」『花菖蒲の系統』。ハナショウブはノハナショウブの園芸種である。6月ごろに花を咲かせる。花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5,000種類あるといわれている。系統を大別すると、品種数が豊富な江戸系、室内鑑賞向きに発展してきた伊勢系と肥後系、原種の特徴を強く残す長井古種の4系統に分類でき、古典園芸植物でもある。他にも海外、特にアメリカでも育種が進んでいる外国系がある。「この6番は今年2年目の圃場です。」                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.28 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(浜松駅~舞阪宿~新居町駅)その6:舞阪宿・西町常夜灯~新居町駅 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​『東海道舞阪宿脇本陣』を後にし。旧東海道に戻ると右手奥に津波の避難タワーが見えた。タワーは鉄骨構造で、屋上の海抜は約12.6m、収容人数は約150人だと。そして前方には、浜名湖の湖面が見えて来た。突き当りの交差点手前左側にあったのが『西町常夜灯』。「舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化十年二月 吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜 灯は文化十年に建立されたことがわかる。舞阪宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。」『東海道夢舞台「舞阪宿」』道標が『西町常夜灯』案内板の隣に。道路を渡った左側にあった『舞阪宿の渡船場、本雁木跡(ほんがんげあと)』。「江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木といった。雁木とは階段状になっている船着場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ」といっている。 ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。」旧東海道は右折して真っ直ぐ浜名湖湖岸沿いに延びていた。我々は旧東海道を離れて湖岸の岸壁に向かうと右手に『常夜灯』が。『舞阪魚市場入口』から見た国道1号線『浜名大橋』。岸壁を進むと左手に『史跡 北雁木(きたがんげ)』と『常夜灯』が。「ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦三年(一六五七年)から寛文元年(一六六一年)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和二十八年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものです。雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。舞坂宿には三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場。真ん中は旅人一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約十八メートル)の石畳が水際まで敷きつめられています。」『史跡 北雁木(きたがんげ)』の先は石畳の坂になっており浜名湖の湖面に通じていた。かつての石垣・石畳の一部も残っており、往時を偲ぶことができたのであった。『東海道五十三次 舞阪 今切真景』の絵画か?こちらが本物。舞坂から次の荒井までは舟渡しで、海上一里を行く「今切れの渡し」といった。今までの徒歩での陸路の旅とは異なり、束の間の憩いのひとときでもあったようだ。冬の舞坂の港の図であるが、水面に突き出た山、手前には大きな帆、更に手前の沢山の杭が遠近をよく表わす。遠景には冬の白い富士山、青い海が爽やかに描かれている。国道1号線『浜名大橋』をズームで。防波堤の先にはこれから歩く『弁天橋』が見えた。北雁木跡の斜向かいに『那須田又七顕彰碑』が建っていた。「那須田家の先祖は、豊臣氏に仕えていましたが、大阪の役の後、舞坂で農業を営むようになりました。又七は、天明4年(1784)の生まれで、子供の時から聡明でした。勉学に励み、16歳で舞坂宿問屋場の書記となりました。その後、村役人・宿役人を長く勤めました。産業振興に努め、海苔養殖の基盤を作りました。飢饉の時には、私財を投じて救済事業を行いました。その人望と功績により名字帯刀を許され 「袱紗刀爺」 (ふくさがたのやや)と呼ばれました。嘉永3年(1850)66歳でなくなりました。安政5年(1858)その業績を永く伝えるため、顕彰碑が建立されました。」そして再び旧東海道を進むと、『弁天橋』手前左にも『常夜燈』が。台座下部に「京に五拾七里ニ拾六町 舞阪宿」 のプレートが貼られていた。赤い欄干の『弁天橋』を渡る。南浜名湖に浮かぶ弁天島のシンボルタワーとして高さ18mの大鳥居が造られたのは昭和48年と。再び国道1号線をズームで。構造形式は、PC5径間連続有ヒンジラーメン箱桁橋。橋梁全長631.8m、有効幅員9.0m。最高地点は海抜31 m。中央支間長は240 mにおよび桁橋としては建設当時には世界最大支間であり、2004年(平成16年)の江島大橋開通まで日本最大の支間長を誇ったと。弁天橋東側から弁天島温泉のホテル・マンション街を見る。江戸時代には,今切の渡しで舞坂宿から新居宿まで一里半(約6km)の距離を約二時間の舟便によっ渡ったが、現在では国道1号で渡ることになる。『東海道五拾三次之内 荒井』舞坂の今切の渡しから荒井に向かう、浜名湖の舟渡しの風景です。遠くに見える向こう岸には箱根と並んで厳しい、規模の大きな関所が待っています。ふき流しをはためかせ、二本の毛槍を高々と飾り立てた船は大名一行で、お供の船が続いて渡っていました。遠くに関所の建物が見え、間もなくのんびりとした短い船旅が終わろうとしています。舞坂から赤い弁天橋を渡ると弁天島である。そこは、温泉や海水浴、つり、潮干狩りなどが楽しめるリゾート地となる。浜名湖を眺めながら弁天橋を歩いたのであった。この時は、干潮であり海に向かって流れる湖水。正面が「今切口」の所で、遠州灘とつながっている。上を国道1号線バイパスの『浜名大橋』が「今切口」を越えて行くのであった。浜名湖は約500年前の地震で太平洋とつながり塩水が入り込み、汽水湖に変わったのだ。今切口という名前は「いつ切れた?」「今切れた」という会話から「今切口」と名づけられたとか?次回はこの『浜名大橋』を車で渡りたいのであった。干潮の時間で鳥居の基礎も顕れて。『田畑家の弁天島別荘跡』1898年浜松に生まれ、1889(明治22)年の東海道線全線開通に伴って、浜松の資産家たちは弁天島に別荘を持つようになり、造り酒屋であった田畑家も弁天橋のたもとに別荘を造りました。水泳ニッポンの父田畑政治(たばたまさじ)は幼少期から浜名湖で自然に泳ぎを覚え、水泳に親しむようになりました。朝日新聞の新聞記者として活躍したのち、朝日新聞東京本社の代表取締役就任。同時に日本水泳連盟や日本体育協会などの要職に就く。水泳選手の育成にも尽力。長い道のりを経て戦後の日本にオリンピックを誘致した功労者。亡くなるまで(享年85)水泳に限らずスポーツ振興に生涯を捧げた。まさに水泳ニッポンの父・タバタマサジ。大河ドラマでは後半の主人公として阿部サダヲが演じるのだと。弁天橋を渡り、緩やかなカーブに。国道301号線に合流する左手にあったのが『辨天神社』。弁天神社は、江戸時代の宝永6年(1708)今切の渡しの安全を祈願して創建されたと。『弁天島と天女』。「昔、弁天島のこの辺りは砂州が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松(はくさせいしょう) 「天の橋立」 のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。それから長い年月が経ち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、洲埼の一部であった弁天は湖に取り残されて島となりました。その後、舞坂と新居の間は渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の宝永6年(1709)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられました。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。御祭神は「市杵島姫命」といい、海上・交通・家内安全・商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されています。」石鳥居の『扁額』。『手水舎』。昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本まで続き、白州青松「天の橋立」のような風景が広がっていた。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りた。村人は大変喜び、社を建てるからここにとどまってほしいとお願いした。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原に立ち去って行った。 それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害にみまわれ、州崎の一部であった弁天は海にとり残されて島となった。その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになったが、江戸時代の宝永六年(西暦一七〇九年)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられた。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきた。御祭神は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」といい、海上・交通・家内安全、商売繁盛など諸願成就の神として多くの人に信仰されている。 なお、境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑があった。朱の『弁天神社拝殿』。『正岡子規 句碑』『天の川 濱名の橋の 十文字』。『松島 十湖句碑』。『月や風や夏しら波の海と湖』さらにJRに沿った旧東海道を進む。弁天島駅前交差点を通過。『弁天島駅』ホームが右手上に。いつまでも、国道1号線バイパスの『浜名大橋』を追いかける。中浜名橋東からJR東海道本線、新幹線の線路を見る。『中浜名橋』。新幹線が通過。『中浜名橋』の専用歩道を歩く。そして中浜名橋を渡ると、浜松市から湖西市に入る。橋を渡り終わると、右手にキャンピングカーの大きな展示場・フジカーズジャパン 浜松店がありしばし散策。この先の旧東海道歩きの自宅~起点・終点までの移動・現地での宿泊手段として欲しいのであったが。その先、右手にあったのが『新弁天神社』。日本橋から272kmのポスト表示。ここは既に『新居町』そして3つ目の橋『西浜名橋』が見えて来た。こちらも専用歩道橋を歩く。東海道本線には貨物列車が。『湖西市案内図』そしてこの日の目的地・『新居町駅』に到着。車の置いてあるホテルのある鷲津駅まではJR東海道線13:40発を利用した。そしてJR東海道線車窓からのサンマリンブリッジを見る。そしてホテルで待っていた旅友Sさんの愛車に戻り、帰路についたのであった。実は、時間は早く帰路につけたため、途中『新居関所跡』そしてその先の『泉町』交差点までを散策したが、これは次の『旧東海道を歩く(新居宿~)』にアップすることといたします。                              ​その5​  に戻る。      ・・・ 旧東海道を歩く(浜松駅~舞阪宿~新居町駅) 完 ・・・ 2019.06.27 コメント(2)
  • 旧東海道を歩く(浜松駅~舞阪宿~新居町駅)その5:舞阪宿・仲町常夜灯~脇本陣 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​舞阪宿を浜名湖岸に向かって進む。宝珠院前に立つ『仲町常夜灯』「文化6年(1809)舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。火防(ひぶせ)の山、秋葉信仰の高まりと共に、仲町の願により4年後の文化10年(1813)5月吉日に、この常夜燈が建立されました。両皇大神宮・秋葉大権現・津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2.7mあります。なお、西側の石の祠は、秋葉山を祀ってあります。ちなみにここ宝珠院は、明治6年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所です。」 寶珠院の山門。山門横の『六地蔵』。『本堂』。明治六年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所であると。山 号 海上山寺 号 宝珠院住 所 浜松市西区舞阪町舞阪1927宗 派 臨済宗方広寺派本 尊 延命地蔵願王菩薩札 所 浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第61番札所次に『養泉寺』を急ぎ足で訪ねた。入口右には『常夜燈』の如き建物も。『本堂』。伝承によれば寛永年間(1624~43)の開創という。延宝年間(1673~81)の検地帳に所載されていることから、信憑性は高そうだ。18世紀中ごろ編纂の『遠江國風土記傳』には「曹洞宗、入野村宗源院末、在天派」。文久2年(1862)の『宿内軒別畳数坪数絵図面』によれば、当時の規模は本堂7間×5間5尺、庫裡4間半×11間。総畳数71畳、総坪数は77坪8分5厘だったと。名 称  海福山養泉寺 所 在 静岡県浜松市西区舞阪町舞阪1907-1宗 派 曹洞宗創 建 寛永年間(1624~43)本 寺 宗源院(浜松市中区蜆塚)開 山 風山大威和尚本 尊 釈迦如来扁額には『海福山』と書かれていた。『六地蔵』。旧東海道に戻りやや戻ると旧東海道(往還道路)案内板が設置されていた。『旧東海道(往還道路)案内図。』旧東海道(往還道路)沿いには多くの神社仏閣や本陣、脇本陣が並んでいた事が理解できた。現在地は『養泉寺』の角の『現在地』。『東海道五十三次之内 舞阪』。舞坂から次の荒井までは舟渡しで、海上一里を行く「今切れの渡し」といった。今までの徒歩での陸路の旅とは異なり、束の間の憩いのひとときでもあったようだ。冬の舞坂の港の図であるが、水面に突き出た山、手前には大きな帆、更に手前の沢山の杭が遠近をよく表わす。遠景には冬の白い富士山、青い海が爽やかに描かれている。『東海道五十三次宿駅名』現在は31番舞阪宿(日本橋より30番目の宿場)、荒井宿へ海上54町(5.9km)。そして次に『岐佐神社』を訪ねた。『岐佐神社御由緒』   「御祭神  蚶貝(ささがい)比売命  蛤貝(うむがい)比売命 御由緒  平安時代に書かれた「延喜式神名帳」に遠江六十二座。敷智郡六 座の一つとして      記載されており、千年以上の古社である。明応7年(1498)の地震津波では、      浜名湖の湖口が切れて「今切」となり、舞澤(舞坂)の郷は、人家と共に水中に      埋没した。満目荒涼たる砂丘上の柳の根本に「岐佐大明神」の小祠を見つけ、      住民は社殿を建立して祀った。これが現在の御鎮座の地である。      無事難を逃れた住民は、付近の松原に部落を作り、現在の舞坂待ちのもとをなした。      これを「三十六屋敷」という。天正2年(1574)以来、数次の本殿・拝殿       再建の棟札を保存している。慶長6年(1601)伊奈忠次公より、御神領3石、      慶安元年(1648)徳川家光公より御朱印状により、神領5石を奉献され      明治維新に至る。      明治6年(1873)郷社に列し、大正9年(1920)神饌幣帛供進社となる。      現在の社殿は大正元年(1912)の造営である。」『社殿』。『赤石の由来』  「古事記に登場する「因幡の白兎」に続くお話です。大国主命は兄弟達と恋争いの末、八上比売と結婚の約束をします。恋に破れた兄弟達は、大国主命を手間山に呼び出して殺そうとはかり、「山の上から猪を追い降ろすから、山の下で捕らえろ」と言いつけて、真っ赤に焼いた大石を、転がり落としました。この大石を抱きとめた大国主命は、大やけどを負い、命を落としました。これを知って悲しんだ母神は、天上の神皇産霊神(かみむすびのかみ)に命乞いをされます。神皇産霊神は、娘神で岐佐神社の御祭神である「蚶貝比売命・蛤貝比売命」に言いつけて、大国主命の治療に当たらせます。蚶貝比売命(赤貝の神)は貝殻を削って白い粉末を作り、蛤貝比売命(蛤の神)は、粘液を出して練り合わせ、どろどろした母乳のようなものを作り、大国主命の全身に塗りました。すると火傷はすっかり治り、大国主命は雄々しい姿によみがえったのです。出雲神話と岐佐神社とは、このようなかかわりがあり、ここに「赤いし」が祀られています。御祭神が海に関係するところから、水産・漁業の神であると共に、この神話に因んで、火傷・病気にも霊験あらたかと信仰を集めています。」そして再び旧東海道に戻り進むと、右手にあったのが『本陣跡』。「2軒の本陣のうち、歴史的にも規模の上でも優位にあったのが、宮崎伝左衛門家。文久2年の「宿内絵図」によると、「間口11間2尺、奥行き20間3尺、建坪130坪、畳敷160畳、板敷23坪5分、土間18坪6分、御本陣伝左衛門」とある。宿村大概帳には「本陣西町凡建坪158坪、門構、玄関付」と記している。江戸時代多くの諸侯が宿泊し、明治初年明治天皇が4回にわたって小休している。文化年間の火災で母屋焼失、その後再建されたが、明治期に入り本陣家の瓦解に伴い、土地建物の大半を売却。昭和10年頃までは一部残存していたが、現在は遺構・建物など全くない。」そして『東海道舞坂宿脇本陣 』を訪ねた。『東海道舞阪宿脇本陣』「舞坂宿は、慶長9年(1601)東海道宿駅制度設定に伴い、開設された五十三次のうち、江戸から三十番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では、人口1,204人・戸数265戸でした。また本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向かい側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。建物は母屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行き15間ありました。現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では、唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟瓦に「天保九年五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の篦書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建築であることが判明しました。」本陣跡の斜め向かいに最近復元された脇本陣があり、無料公開されていた。ここまで歩いて来た中でも脇本陣がこれだけ立派に復元されて、昔の面影を残しているのは珍しいのであった。入口の見事な檜皮葺の唐破風。坪庭から奥を望む。『廊下』。『炊事場』。『奥の間』。『上段の間』。『前庭』。『上段の間』。様々な旅人の姿が描かれていた(1/2)。様々な旅人の姿が描かれていた(2/2)。『歌川広重 東海道五十三次』の紹介。坪庭を再び。『駕籠』。2階から入口の見事な檜皮葺の唐破風を見下ろす。『源馬徳右衛門本陣』を『脇本陣』2階から見る。「「宿村大概帳」には、「本陣、西町凡建坪90坪、門構、玄関付」文久2年の「宿内絵図」では「陣徳右衛門間口8間半、奥行14間5分、惣畳数86畳半、惣坪数100坪5分」現在建物なし。1軒おいて東側が宮崎本陣跡。」旧東海道・舞阪宿を歩く旅人の姿、そして脇本陣のジオラマ。説明員の机。『文久2年(1862)の舞阪宿絵図(宿の西端部分)』再び坪庭とその奥の部屋を望む。                              ​その4​  に戻る。                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.26 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(浜松駅~舞阪宿~新居町駅)その4:馬郡町・東本徳寺~舞阪宿・新町 常夜燈 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​『東本徳寺』入口に『髭題目碑』と『清正公三百年祭記念碑』が立っていた。『清正公三百年祭記念碑』槇に囲まれた参道を歩く。『山門』。『本堂』。行学院日朝上人の開基になります。芝生の緑と、青空。そして本堂、綺麗な境内。『永代霊塔』『逆境を嘆くことなかれ、強敵に磨かれ人は鍛えられる』・・・しかり!!。東本徳寺の裏手には、西本徳寺があった。入口に『髭題目碑』と『海中出現 釈迦牟尼佛安置碑』が立っていた。『本堂』。海中出現の釈尊の立像が祀られている。寺伝によると、鎌倉時代の仁治2年(1241)4月8日、遠州灘の浜において漁師の網にかかって引き上げられたという。本堂を斜めから。村人たちが堂を建てお祀りするうちに歳月が流れたが、630年を経て、平成15年に建設計画が立てられ、平成21年に本堂・位牌堂が完成したと。西本徳寺は東本徳寺と開創時の由緒は全く一緒、身延山第十一代行学院日朝上人が南北朝期の永徳元年(1381)に開いたとされている。日朝は日蓮宗の名僧で伊豆の人である。本堂の見事な彫刻。『万霊供養塔』。『浄行菩薩像』『馬郡跨線橋南』交差点を進む。交差点の先に大きな石灯籠が見えた。右手にあったのが『春日神社、津島神社』。『春日神社』石鳥居。『手水舎』。『春日神社』拝殿。『春日神社「鎮座地 浜松市馬郡町一八八ニ-ニ』 祭神  武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神 例祭日 十月中旬 由緒  往昔永徳元年(1381)秋甲州行脚の沙門律師日朝当地へ廻国の折神仏深理と     悟し民族挙って一社を建立を願ふに依りて後小松天皇の御年應永二甲戊年     (1395)八月十五日春日大明神の神札を奉祀勧請す後天正十二年(1584)     以来数度の改築あり慶安元年(1648)十月二十四日徳川三代将軍より     朱印六石下賜あり代々拝領す明治六年(1873)三月村社に列す仝七年末社を合祀す      昭和八年(1933)七月十八日本殿、拝殿、幣殿改築遷宮以後現在にいたる。 末社  若宮神社 八幡社 山宮神社 天王社(例祭日 七月十四日)」応永2年(1395年)奈良の春日大社より祭神を勧請し建立された春日神社。狛犬に代わり雌雄の狛鹿を置く。いかにも春日社らしい。右は『雄の狛鹿』。左は『雌の狛鹿』『拝殿』の奥に朱の『本殿』。『境内社』。これが『津島神社』と思っていたが違うらしい。境内社『拝殿』。跨線橋南交差点から県道49号線に入り、舞阪駅南入口交差点を過ぎるとすぐ、700mにわたる舞阪のみごとな松並木が始まった。よく整備されており、これまでで最高の松並木。その松並木が始まる所に、『夢舞台・東海道「松並木」』の標柱が立っていた。約700mの両側におよそ340本ほどの松が残っているのだと。『東海道松並木』。常夜燈を模したものであろうか。汚水マンホール蓋もひたすら『松』。松への薬剤散布の管理TAGのようであった。進行方向右手には干支(えと)で時刻を表す石像が。左手には東海道五十三次の宿場の碑が続いていた。車の少ない時にシャッターを。枯れて伐採された松の株、中が空洞になっていた。道路側は『東海道 五拾三次内 舞阪 三拾之宿  平成三年』歩道側は『今切のレリーフ(左) 舞坂 今切真景(右)』「舞坂宿は、日本橋から67里(264,9km)品川宿から数えて30番目の宿である。東海道の陸路は、舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を頼りとして渡ることになる。浜名湖は、かつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の地震により切れて入海となった。その切口を「今切」と呼ぶ。地震による被災から復興して「今切渡船」の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。」『東海道松並木』「この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康の命により街道を整備し、黒松を植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端「見付石垣」より馬郡境まで、8町40間(約920m)道の両側の堤に、1,420本の立木があったという。その後、寿命や台風で倒れる一方で、その都度補植など行ってきたが、昭和13年(1938)国道付け替えの際。堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。現在700m、株数約330本旧東海道の面影を良く残している。」道路側は『舞阪宿』。往時の東海道を偲ぶ松並木。やはり旧街道に松並木は似合う。松並木の途中にあった『舞阪橋跡』。「ここは江戸時代、舞阪宿唯一の橋である舞阪橋がかかっていました。北に西長池という大きな池があり、南から松並木を横切って昭和10年頃まできれいな水がながれていました。天保14年の東海道宿村大概帳には次のように書かれています。字 舞阪橋 土橋 長7尺 横3間 橋杭4本立て弐組是は前々より御普請所にて、寛政10年御代官辻甚太郎掛にて御普請これあり、この証拠書物は宿方にあり、文化14年にも御普請これあり、もっとも土橋のため保持に難あり宿役で板橋に掛換えをした。」『浪小僧』(左側)。松並木が終わった所にあり、小太鼓を抱えた可愛い小僧が四角い石の上に座っていた。傍に公衆トイレもあった。「むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚が取れない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。 ~遠州七不思議より」『MAISAKA(舞阪) MAP』。ここは新町交差点の手前。新町交差点で終わる東海道松並木。そして新町交差点で国道1号線と合流するが、直ぐに別れ旧東海道は左側に。道路の分かれ目の先端には『東海道⬅舞阪宿』の表示板があった。そして道路の前方両側に石垣が。『見付石垣』宿の東外れに位置していると。『史跡 見付石垣』。「この石垣は舞阪宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永六年(一七○九年)の古地図には既に存在している。 見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。」『東海道舞阪宿一里塚』碑が右側に。近寄って。『一里塚跡』碑が左側に。「江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604年)、主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより、日本橋を起点として1里(約3.9km)ごとに、道の両端に土を盛り、その上に榎や松などを植えた一里塚が整備されていった。一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う目安にもされた。舞阪の一里塚は、日本橋から68里(約267km)に位置し、松が植えられていた。」『宿内軒別書絵図面』文久二年東海道舞坂宿宿内軒別書絵図面現在地付近。写真中央付近に『壱里塚』、『秋葉山常燈明』の文字が。『一里塚跡』手前には『新町 常夜燈』が。「舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞阪宿では、文化6年(1809)元日、宿場の大半を焼く大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、常夜灯を建て秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。常夜燈の竿石の四面には両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。」                              ​その3​  に戻る。                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.25 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(浜松駅~舞阪宿~新居町駅)その3:高塚駅入口~馬郡村 高札場跡 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​国道257号線の高塚駅入口交差点を通過。高塚駅は浜松市南区内に設置されている唯一の駅。高塚駅とは反対に写真の方向・南方向に2kmほど進むと海岸に出る。そして国道257号線は分岐し、右側の分岐を進むと旧東海道・県道316号線。分岐の中央にあったのが、『東海道夢舞台道標・浜松市『篠原』』。浜松宿 宿境まで一里十三町舞阪宿 宿境まで一里十五町国道257号線と別れて旧東海道を進む。『立場跡』。真新しい『立場跡』案内板。「立場は、慶長六年(1601)東海道に宿駅伝馬制度ができた時に、宿場と宿場の中間の休憩の施設として設けられました。ここは立場本陣とも言われ、大名等身分の高い人達が多く休憩しました。明治元年(1868)に明治天皇が御小休されたという記録ん「御東幸御小休帳」や文化年間の「御大名様御小休帳」が残されています。筋違いには、道中案内記にも載っている茶屋「浅田屋」がありました。現在この辺りの字名は立場といいます。」次に右手の『神明宮』を訪ねた。入口で境内樹木の消毒を行っていた神主の方が、説明して下さいました。格式ある「神明造り」の『拝殿』。『本殿』。「祭神  天照大神 豊受姫大神 由緒  当神社は、「伊勢神鳳抄」に記される。「篠原村神戸九町三反」に当たり     建暦二年(1212)浜名湖中ノ島の小島神明島に鎮祀せられたが、     地震津波等により永正年間(1504~12)に当地に遷座された。     徳川幕府により御朱印五石を拝受、村民の崇敬を得て今日に至る。      天正八年(1580)の棟札が現存。 社殿  昭和7年に建立。神明造り。伊勢神宮正殿を根本とする様式。     柱は丸柱で両妻に棟持柱が独立。破風枝は長く突き出して左右に交わり     先端は千木となる。     棟の上に竪魚木が六本。屋敷の勾配は四十五度、床は高欄。  灯籠  五対一基ある。そのうち一対は江戸の伊丹屋善助又三山の鈴木十四郎の      寄付。他に明治三十五年、三十九年、征露軍人三十四名の名前が刻まれている。   拝殿扁額 「神明宮正二位勲一等公爵九条道實勤書」とある。」『篠原の一里塚跡』(日本橋より六十七里)前。「徳川幕府は、慶長九年(1604)東海・東山・北陸の三街道に方五間(約9m四方)の一里塚を築くことを命じました。江戸日本橋を基点とし、一里(三十六町=約四キロ)毎に街道の両側に一里塚が築かれました。東海道宿村大概帳に「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原地内」と記されています。(左側とは南・右側とは北を指す)当時の旅人は、一日十里(約40キロ)を歩くのが普通であったといわれていました。」両側に住宅街が続く旧東海道。『高札場跡』。「藩は一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるため、村の中心または目立つ場所に高札場を設けた。高札には親孝行・忠孝の奨励や賭博の禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の禁止などがあった。高札の文面は簡易な仮名交じり文が用いられていた。明治政府も高札を使ったが、明治六年(1873)太政官布告をもって廃止された。高札のあったこの辺りは、札木という地名になっている。」道路脇に小さな社が。(この後も同じような社をいくつか見掛けた)。古い建物の『柳本診療院』。浜松市西区篠原町の旧東海道沿いに建つ柳本診療院は、昭和2年(1927年)に建てられたとされる木造二階建ての擬洋風(洋風を真似した様式)の建物。この診療院を開業した柳本満之助は、豊橋出身で日露戦争で軍医として従軍した後ここ(現浜松市西区篠原町)で開業。現在は閉院しているようですが、そのモダンな外観は大変印象的で、目を楽しませてくれたのであった。玄関屋根の鬼瓦には「Water」、「MIZU」の文字が刻まれているようであったが、その意味は?そして左手に浜松市立篠原小学校の校庭内の大きな石碑が。浜松市立篠原小学校『正門』。篠原村立篠原尋常小学校、篠原村国民学校の歴史を持つ小学校であると。こちらも校庭内に。『長里橋』を渡る。前方右手に現れたのが『愛宕神社』。安全祈願の社か?この手前右奥にも同様な社があった。『愛宕神社』正面に石鳥居が。坪井町東端に鎮座する愛宕神社。『愛宕神社』「鎮座地 浜松市西区坪井町一番地の六」 祭神  軻遇突智命(かぐつちのみこと)、素盞鳴命(すきのをのみこと) 由緒  当社の創立は文禄元壬辰年(一五九二)、坪井郷新田村開発当時に、氏神として     京都愛宕神社から御分霊を奉斎し、 慶長六辛丑年(一六○一)二月、徳川家康公が     鷹狩りの折、御祈願をしたとの古老の言い伝えがあり、 武将の崇敬が厚かった     坪井郷の内、新田の氏神として崇敬され由緒不詳ながら、神社宝物として     棟札八枚が現存する。」『拝殿』。『愛宕神社』横にあった『光雲寺』。『臨済宗愛宕山 妙心寺派 光雲寺』。庭先の槇も見事に手入れがされていた。生垣の槇も見事に。『明治天皇御東幸野立所跡』。「明治元年」(1868)9月20日、明治天皇は岩倉具視以下三千余人を従え京都を出発し、二十三日間を懸けて東海道を下り東京へ進みました。行列は十月ニ日に、新居から舞阪へ船で渡り坪井村の杉並木の中のこの辺りで歩を止めて短い休憩(野立と言う)をされました。当日は今の暦では十一月十五日にあたり、記録によれば天気は快晴でした。行列はこの先の篠原村立場本陣で小休され、浜松へ向かいました。」明治天皇は、下図の如く駕籠に乗られた移動であったようだが、それにしても23日間で京都から東京までの移動は信じられないのであるが。『明治天皇の東京行幸フランスの新聞雑誌(英語版)『ル・モンド・イリュストレ(フランス語版)』1869年2月20日刊行号内の挿絵。』【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%A1%8C%E5%B9%B8】より右手に『稲荷神社』。『郷社 稲荷神社』社号標。『稲荷神社 由緒案内』一.祭神 稲荷大神 宇加之御魂之大神 佐田彦大神 大宮売大神一.由緒の概要●永享十二年(一四四○)伏見稲荷より勧請したと言われる。 ●天正十六年(一五八八)九月十八日拝殿再建の棟札が現存すると言い伝えられている。 ●現在の拝殿は大正十一年に建てられた。境内の森の木が建築材として利用された。 村内の大工数名が建築に携わった。境内入口の門柱にその人達の名前が刻まれている。 ●慶安元年(一六四八)時の幕府から朱印五石が禄(与えられる)された。 ●境内に入ると立灯篭が左右に見える。文化年間と刻字されている。 ●両部鳥居と稲荷鳥居が続いている。 両部鳥居は朱色に塗られ、四本の稚児柱と呼ばれる控柱で 支えられている。稲荷鳥居は石造りで文化十三年丙子年(一八一六)十一月吉日  遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎と刻まれている。 ●稲荷の名のごとく、元来農耕神であるが、中世以降から漁業神また産業神、商売神として 崇められ、近郷からの参詣者も訪れるようになった。」『稲荷神社』境内。『社殿』。『常夜燈』と『坪井村 高札場跡』。「一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるために、村の中心または人通りの多い往来などに高札を掲示した高札場が作られました。高札には親孝行、忠孝の奨励やバクチの禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の禁止などがありました。高札の文面は簡素で庶民にも理解しやすい仮名交り文が用いられていました。明治政府も高札を使いましたが、明治六年(1873)に廃止されました。近くの元庄屋にはキリシタン札などの高札が永年保存されていました。」「坪井西」バス停を過ぎ暫く進むと、再び右手のここにも常夜燈が。『忠魂碑』。坪井西バス停の先右側に入った草地に石碑が立っていた。『史蹟引佐山大悲院観音堂聖跡』。「この地に永く安置されていた観世音菩薩は、引佐細江の観世音と言い、高さ一尺二寸五分(約三十八センチ)の立像で、定朝法橋上人の真作であると伝えられる。 第六十八代後一条天皇の治安元年(一○二一)定朝上人諸巡行の途中山住神社(水窪町)に山籠もりされた時神託を感じ、引佐細江の里に行き老杉の元で一心不乱に大悲十句の秘文を唱え祈りつづけられた。 七日七夜の三更(午前0時前後)老杉の頂が光り輝き、忽然として聖観世音菩薩が応現された。 その慈悲に感激し、ありがたさの万分の一をも残そうと老杉を伐り、聖観世音菩薩の尊像を一刀三礼して彫り上げ、国下安民五穀豊饒のため引佐の地に堂宇を建てて、安置し奉った。 第七十六代近衛天皇の久安五年(一一四九)八月下旬に天災地変あり、山崩れや洪水によって田野は流れ、山川村里は一時に大海となった。 この時、菩薩の霊訓によってこの地に遷し、草庵を造り安置申しあげた。 仁安の頃(一一六六)多田満仲五代の孫、従五位の下、伊賀守源光行公の紀行に、筑紫(九州)の人、頼み事があって鎌倉に下るとき参詣して、 望み叶うならば御堂を建立申そうと祈願し、目的を達してお礼に堂を新しくしたとある。 それ故に光行公も詣でて、多くの人々の願望成就のしるしを見、大悲大慈の恵は広く、深く、たのもしく思われて歌を詠んだ。  たのもしな 入江に立つる 身をつくし   深き志るしの ありと聞くにも  右の一首、光行公が観世音を前に詠まれたと東海道名所図会に見える。 第句十代後宇多天皇の弘安年中(一二八三)佐夜の中山(掛川菊川の境)の化鳥退治のために勅命を受けた上杉三位高実公が下向の折りも当観世音にご祈願なされ、成就速やかであったなど伝わる。 また、寛文十二年(一六七二)四月二十三日、新居宿の住人片山権兵衛紀州熊野浦にて難破したが、大悲の感応を得て助かった。 その礼謝としてお堂を建立、寄附した。 以上は、延宝五年(一六七七)五月八日、如意寺四代利州艱禅和尚の書き遺された観音由来を略記したものである。 その後も東海道を往来する人々にご利益ある観音として聞こえ、文化年間(一八○四~一四)江戸の商人遠州屋源人、相良屋茂七など多くの人から大般若経六○○巻が奉納された。 今も、毎年一月十七日の大般若法要で目にすることができる。 観音像は、昭和四十二年(一九六七)以来、如意寺に安置してある。」バス停『馬郡観音堂』「馬郡東」バス停付近の旧東海道を振り返る。『馬郡村 高札場跡』「一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるために、村の中心または人通りの多い往来などに高札を掲示した高札場が作られました。高札には親孝行、忠孝の奨励やバクチの禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の禁止などがありました。高札の文面は簡素で庶民にも理解しやすい仮名交り文が用いられていました。明治政府も高札を使いましたが、明治六年(1873)に廃止されました。このすぐ近くには「札木さ」と呼ばれている家があります。」馬郡町自主防災隊倉庫の横の鞘堂にも秋葉燈籠が納まっていた。​                              ​その2​  に戻る。                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.24 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(浜松駅~舞阪宿~新居町駅)その2:浜松市若林町~南区高塚町・高蔵寺 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​旧東海道・国道257号線を浜名湖方面にすすむ。浜松市若林町歩道橋の手前、左に折れると「可美公園」へ。国道沿いの生け垣は、手入れされた槇の木が。諏訪神社手前、右側には『忠魂碑』が。「陸軍中将従三位勲一等大久保春野書」と書いてあったが。『みたらしの池』。「水神様をおまつりした人工の池が、現在の可美小学校が建設される昭和二十二年(一九四七)一月ごろまで、「みたらしの池」といわれ可美小学校の運動場の南西のあたりにあった。池が埋め立てられてしまったので、たいへん信心深い、土地持ちの丸山森三郎氏が、新しく水神様をおまつりする池を現在の不動尊(成徳寺)の南側に造った。しかし、現在はその池も埋め立てられてしまい、今ではその面影はない。当時、可美小学校の校内運動会の時に雨が降ると、みたらしの池を埋めたせいなどともいわれた。」『浜松市・可美村合併記念』碑。平成3年に合併したと。『可美村民憲章』碑も。そしてその先にあったのが『諏訪神社』。境内の参道を進む。『諏訪神社(旧名諏訪明神)』。若林町西端に鎮座する諏訪神社。大永4年(1524年)内田六郎兵衛なる者が長野・上諏訪社より勧請して建立、明治中期頃まで内田家が代々神主を務めた。当初の社名は諏訪明神。鳥居を潜る。明るい青が印象的な『社殿』。拝殿奥の『本殿』。『秋葉神社』。『秋葉常夜灯籠』増楽町に残る秋葉燈籠。鞘堂に納められその姿は見えなかった。「天正二年(1574)、家康公は「火の神」アキバ神社を浜松高町に建てた。一方、春野の深山に通ずる諸街道を秋葉街道と名付け、旅人の安全を祈願し、街道の要所に常夜燈の設置を奨励した。このとき、建てられた常夜燈が現在に残る秋葉燈籠の始まりである。はじめのころの灯籠は、旅人の脚下を照らすための素朴なものだったが、火を尊ぶ心から木灯籠、そして石灯籠と造り替えられ、現在のようなりっぱな灯籠になった。現在、増楽町に残る常夜燈楼だけが、可美地区に残る唯一の秋葉灯台である。」『佐鳴予備校可美校』前を通過。そして歩道橋手前の右手にあったのが『村社 熊野神社』。『境内』。『熊野神社(旧名伊豆権現)』「一、祭神  伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 事解男命(ことときおのみこと)         速玉男命(はやたまおのみこと) 一、別社  若宮社 祭神 大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳天皇) 一、大祭  十月十日 旧九月十五日なりしも大正中頃教育的見地からより各字統一す 一、由緒  当社は大正15年4月1日火災に罹り、社殿等焼失したればその由緒詳かならず。 伝ふる所に依れば、名門出身紀伊國熊野神社の神官故ありて諸国遍歴の砌当地に 足を止め居を定め、祭神を奉祀したるに始まると云う。古来熊野三社大権現と 称したれども、明治2年六所神社と改称、同7年熊野神社と改め、同12年 村社に列せらる。」『社殿』。ジーユー(GU) 浜松可美店の角にあったのが『領地境界の標柱』。「江戸時代、宝永二年(1702)に高塚(当時は高塚村)は堀江領になったが、増楽(増楽村)以東は浜松領であった。これはその領地の境を示すために建てられた標柱)である。かつてはここより西側にあったようだが国道拡幅により現在の地になった。堀江領側にも傍示石と称する境界の標柱があったようである。」浜松藩井上河内守の領分であった敷智郡増楽村と、ほりえの大沢右京大夫の知行地であった敷智郡高塚村との境界に建立されていた。東海道の左右に一基づつあった。「従是東濱松領(これよりひがしはままつりょう)」と刻まれた高さ1.5mの石柱。『スズキ入口』バス停を通過。バス停手前の『領地境界の標柱』の角を東海道線の方向に向かい線路を渡った場所には​スズキ歴史館​👈リンク、スズキ㈱本社があるのだ。『堀江寮境界石』宝永2年(1705年)高塚村は旗本大沢氏の堀江領となり明治維新まで続いた。この辺りに堀江領を示す領界石があったらしい。解説板によれば、高塚町の東端、国道257号の南側に住んでいた高橋長兵衛家の前庭に境界表示の礎石があるとのこと。『高塚村高札場跡と秋葉燈籠跡』。「東京国立博物館に所蔵されている東海道分間延絵図によると、当時の高塚には、高札場が秋葉燈籠の東側(現在の小野田吉平氏宅)付近にあった。江戸時代には、どこの村にもそれぞれ高札場があり、木板の札を村の中心で人目にたつところに建て、切支丹禁制、火災防止、徒党を組むことの禁止、犯罪人の罪状などを書いて村人に布告を徹底させた。」浜松市南区高塚町の交差点角にあった『麦飯長者跡』。「昔、高塚に小野田五郎兵衛という長者がおり、明治維新(一八六八)のころまで、誰彼の区別なく、街道を行き交う人々に湯茶を接待し、空腹時には麦飯を食べさせていた。いつとなく、麦飯をくださる長者さまということで「麦飯長者」といわれるようになった。五郎兵衛の善行が浜松城下にも知られ、小野田の姓が許され、村役人、庄屋を務めた。そのため、小野田家は代々、五郎兵衛を名乗ってその歴史を今に伝えている。」さらに国道257号線を進む。舞阪まで7kmの表示が。次の歩道橋の下、右手にあったのが『郷社 熊野神社』。一の鳥居を潜り進む。『郷社 熊野神社』正面。『熊野神社』案内板。「当社は、後三条天皇の延久年間に創建されたと口伝され、 紀州和歌山の熊野本宮の神主が、諸国行脚の途中でこの地に足を留めて祭祀したと伝えられ、熊野三社権現と称えられた。 ある時、神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、村人と図って神社の裏山に土をもりあげた。 その後「安政の大地震」が起こり、津波の為多くの死者が出たが、この里の人々はこの丘に避難して難を逃れたと伝えらる。 又一説には、大津波の犠牲者をこの地に葬り沢山の砂を浜から運んで(浜垢離の起源)高い墓を築いたと。 大きな墓(つか)であったので大墓、後に高い塚~高塚と呼ぶようになり、地名になったと伝えられる。」「由来紀州(和歌山県)熊野本営の神主さんが諸国行脚の途中、此の地に足を留めて祭祀したのが始まりであると云われている。 或る時此の地の神主さんが高い丘を作って人々を救へと云う不思議な夢を見たので、村人とはかって神社の裏山に土を盛りあげた。 その后安政の大地震が起り津波のため多くの死者が出たが、高塚の人達は此の丘に避難して被害を免がれたと云伝へられている。 又一説に大津波のため住んでいた人達が殆んど死んでしまった。 村人は津波の犠牲者を此の地に葬り沢山の砂を浜から運んで高い塚を作った。(今でも浜垢離と云う習慣として残っている。) 大きな墓であったので大墓後に高い塚ー高塚と呼ぶようになり地名になったと伝えられている。」『社殿』。扁額『熊野神社』。社殿内部では朝の儀式が行われていた。よって社務所は無人で御朱印は頂けなかった。『御神木』「雲竜椎(うんりゅうしい) 樹齢500年(推定)位の椎で、当熊野神社の歴史をじっと見守ってきたとことが 考えられます。丁度雲に坐って昇天する龍の面影を留め骨と皮で尚神殿をお守りする様相が 偲ばれる処から、御神木として本年度より登記致しました。」「昇天松 樹齢400年(推定)位の黒松で真直ぐに天空に向かって伸びる姿は、当神社境内でも その枝振りと共に一際立派で仰ぎ見る人達に崇高な感動を与えて呉れます。 遠く南遠州灘を望み、北方に赤石の山脈を見下ろす、御神木として何時までも此の処に 住む人たちを守護って戴きたいと思います。」境内には『稲荷神社』も。扁額『古札納付所』であろうか。そして旧東海道に戻ると道路の正面反対側にあったのが海岸に向かって延びる『源十道路(げんじゅうどうろ)』。「この道路の名前の由来は、現在、道の東に住んでいる高橋登氏と西に住んでいる高橋みち氏の「ひおじいさん」(三代前)の高橋源十氏の名前をもらって、名付けられたものといわれている。」とあったが、歴史的な意味は??そして次に訪ねたのが『高蔵寺』。所在地:浜松市南区高松町4706。『六地蔵』。『本堂』。臨済宗方広寺派の寺。扁額には山号の『如法山』と。『福徳稲荷大明神』奉納された幟が並んでいた。小さな祠も。                              ​その1​  に戻る。                                 ・・・​つづく​・・・ 2019.06.23 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(浜松駅~舞阪宿~新居町駅)その1:鷲津駅~浜松駅~可美小学校跡 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​この日・5月24日(金)は早朝に起床。部屋の窓から浜名湖を見る。日の出前で刻々と浜名湖がオレンジ色に染まって来ていた。そしてこの日の浜名湖の先の山の端からの日の出。時間は4:45過ぎ。しばらくカメラを構えながら日の出の光景を楽しむ。浜名湖も赤く染まり赤い光の帯が。そして光の帯の中に小舟が。そしてあっという間に丸い太陽が姿を現す。浜名湖には多くの小舟が浮かんでいた。何の漁をしているのであろうか。オレンジ色に染まった水面に光る帯をズームで。光の帯に向かって小舟も動き出していた。燃え上がるが如き水面のカオス。そして6:30からの無料の朝食を楽しむ。宿泊した鷲津駅前のホテルを振り返る。7時過ぎの電車で鷲津駅からJR線で浜松駅に戻る。『ようこそ『技術立国発祥の地』湖西市へ』が鷲津駅前に。湖西市は豊田佐吉・喜一郎がうまれたまちであると。豊田佐吉は豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業、トヨタグループの創始者である。豊田喜一郎は豊田佐吉の長男でトヨタ自動車創業者。トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)などを歴任した。トヨタグループ創業者豊田佐吉の誕生120年を記念して、佐吉の誕生の地に1988年10月にオープンした『豊田佐吉記念館』があると。この日の『旧東海道を歩く(浜松駅~新居宿)』のコース。ひたすらJR東海道線、新幹線に沿って歩き、浜名湖を越えて行くのであった。浜松駅まで約20分の移動。そしてこのひの旧東海道歩きのスタート。浜松アクトタワーを振り返って。浜松市水道のマンホール。出世大名 家康くん と出世法師 直虎ちゃん。時計は7:32を示していた。新幹線沿いを進みこの先を成子交差点方面に右折。この成子交差点付近には『西番所』があったとのことであるが、石碑や案内板等は見つけることが出来なかった。「成子」交差点を通過。直線道路が続く中、新幹線のガードを潜る。ガードを抜けると八丁畷(はっちょうなわて)と呼ばれる、まっすぐな道が八丁(約800m)程続く。松並木が続く美しい所だったのだそうだ。「八丁畷」というと、川崎宿を出た先にもあった。そしてバス停『よろい橋』を通過。ここは今から約900年に比叡山延暦寺と鴨江寺の僧兵が対峙した言わば古戦場。戦死者を葬ったとされる千塚(血塚とも)がどこに築かれていたのか今となってはわからないと。平安の昔に思いを馳せてここを歩く。浜松市中区から南区に入る。前方に『鎧橋』。平安時代末期、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の兵は辺り一帯の田に水をはり、鎧を着てこの橋の守りを固めて戦ったところから鎧橋の名がついたと。下を流れる『堀留川』。『鎧橋』と書かれた木柱。『鎧橋(よろいばし)』。「平安時代末期(八百年~九百年前)戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺(かもえじ)を攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺一帯の水田に水を張り、鎧(よろい)を着て、この橋の守りを固めて戦ったので、その後、鎧橋と称したという。その時の双方の戦死者およそ千人を鎧橋の北側に葬り、千塚(または血塚)と言ったと伝えられている。」『八丁縄手』「森田から東若林へ続く旧東海道の長い畷を「八丁縄手(畷)」と読んでいる。八丁縄手と呼ばれるようになった時代は明らかではないが、近くに「八丁」や「縄手」などが古い地名として残っているので、直線に延びた長い見事な松並木の道が、何時となく土地の人々の間で「八丁縄手」と呼ぶようになったということである。伊場の坂下にあった鴨江寺の鳥居が、ここから望見された昔は、「鳥居縄手」とも呼ばれていた。」『若林一里塚跡』鎧橋の先の左側にある岡本眼科クリニックの看板の脇に若林一塚跡があった。「・・・・、ここは江戸日より66里、昔は土手のある松並木が続いて(八丁縄手)、榎は街道を行く旅人の道標でした。」東若林の交差点を進む。交差点先の先の両側にあったのが『二つ御堂』。奥州平泉の藤原秀衡公とその愛妾によって天治年間(1124-26)に創建されたものであり、北堂は愛妾が秀衡が京で病気の為亡くなったとの誤報を受けて建立したもので、境内には二つ御堂解説と馬頭観音・弘法大師像・高札場跡標柱が建っており、御堂の西側には秀衡の松がある。右手にあったのが二つ御堂の内の北堂・『阿弥陀堂』。北堂・『阿弥陀堂』。『二つ御堂』、『高札場跡』、『馬場観音』の案内板が並んでいた。「奥州平泉の藤原秀衡と、その愛妾によって、天治年間(1125年ごろ)創建されたと伝えられている。京へ出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をともらうために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。現在の北堂は、昭和三十年改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が、南堂は、昭和十二年新築、薬師如来・不動明王・大日如来が祭られている。毎年十二月十四日、供養が行われている。」『高札場跡』「この付近に柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。村の人々に法令やおふれを周知させるために書かれた木札を高札といいます。明治三年(1870)ごろ廃止されました。」『馬頭観音』「宝冠に馬頭をいただき、憤怒の相をした三面八臂の観世音菩薩である。交通b運搬、農耕等のため極めて重要であった馬の供養と結合して、江戸時代の庶民の信仰を集めた。」この石仏は??北堂・『阿弥陀堂』裏の墓石群。二つ御堂(北堂)の道路を挟んだ向かい側に二つ御堂(南堂・薬師堂)が建っていた。南堂は、秀衡が愛妾への感謝の気持ちを込めて建立したもので、御堂には薬師如来・不動明王・大日如来が祭られており、境内には明治天皇御野立所記念碑が建っていた。『南無薬師瑠璃光如来』の幟。南堂・『薬師堂』から北堂・『阿弥陀堂』を見る。南堂・『薬師堂』左には『明治天皇御野立所記念碑』が。北堂・『阿弥陀堂』の横にあったのが『村社 八幡神社』。正面から鳥居その奥に社殿(拝殿)を見る。境内参道を進む。扁額には『天照皇大御神、大雀命、倭健命、大山津見命、加藤清正公』と。『拝殿』。八幡神社の創建年代等は不詳であるが、山城国(京都府)の石清水八幡宮より勧請したと。ご祭神は品陀和気命(応神天皇)である。若林の松並木。『名残松』。街道を先に進むと左側に東海道の松並木標柱があり、前後にまばらに『名残松』が立っている。写真は、振り返って撮影したもの。右手には『可美小学校跡』可美市民サービスセンターの場所が可美小学校の旧地。「明治六年   高塚学校として創立。 大正三年   可美尋常小学校となる。 昭和二十二年 可美村立可美小学校となる。        (増楽町に移転) 昭和二十九年 跡地位可美村役場となる。 平成三年  浜松市に合併。        可美村役場は可美市民サービスセンター」『天皇皇后両陛下行幸啓記念』碑も。                                                                           ・・・​つづく​・・・ 2019.06.22 コメント(0)
  • 浜松市・中田島砂丘を訪ねる この日(5月23日)の旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)を完歩し、前夜に宿泊したホテルの提携駐車場で旅ともの愛車に乗り換え、この日のJR鷲津駅前のホテルに向かう予定であったが、時間が早いため、浜松市内の遠州灘に面した『中田島砂丘』を途中、車で訪ねた。馬込川河口にある『風車公園』の無料駐車場に車を駐める。回転はしていなかったが、大きな風車が迎えてくれた。ここは『遠州灘海浜公園』の一つ。『遠州灘海浜公園』には3箇所の大きな公園があり、愛称を公募し、そsれぞれ風車公園、石人の星公園、凧場公園に決定したとのこと。     【http://www.hama-park.or.jp/f-kanri/f-ennsyuu/ennsyuu-kahinn.htm】よりここ風車公園には中田島砂丘あり、築山から馬込川河口や遠州灘を望むことが出来た。その砂丘には風と砂が生み出す「風紋」も見られ、また海浜植物が自生する恵まれた環境の中に位置していたのであった。。『海岸までの歩行者通路』案内。今は話題になっているプラスチック問題を提起しているガイド板。そしてこの『中田島砂丘』は、夏にはアカウミガメが産卵のために上陸すると。産んだ卵は囲いに入れられ、孵化したら人によって放流されるのだと。およそ『中田島砂丘』12kmが文化財(天然記念物)に指定されているのだ。また砂丘という環境からハマヒルガオやコウボウムギといった海浜植物が多く見られると。アカウミガメの囲いの中の『ハマヒルガオ』。近くに生えていた『コウボウムギ』。砂丘を上っていく。旅友のSさんは、カメラの電池切れとのことで電池交換のために駐車場の愛車まで戻る。鳥取県の鳥取砂丘ほどは広くないが、正しく『砂丘』。ここ中田島砂丘には、写真のごとく『堆砂垣(たいさがき)』と呼ばれる施設があった。これは砂浜に砂が積もるよう促し、砂丘の面積が減少するのを防ぐ施設である。これが砂に埋まりそうになった時は上部に増やしていく。 近隣の静岡県立浜松江之島高等学校や、市内の郵便局、ボランティア団体等が毎年設置していると。急な砂丘の斜面をひたすら登って行った。横には『堆砂垣』が。そして砂丘の頂上まで辿り着くと、前方には真っ青な遠州灘が拡がっていた。左手奥には『浜松市 南部清掃工場』が。登って来た砂丘斜面を振り返る。海岸には親子であろうか、カップルであろうか二人連れが。白波が打ち寄せて。時々、大きな波も。浜松市内方面の眺望。浜松アクトタワーが聳え立つ。そして漸く旅友が戻って来て砂丘を必死に登る。私は美しい貝殻を拾う。クレーターの如き形状の場所も。そして帰路に『風紋』を発見。東西4km、南北600mにわたる中田島砂丘は、日本三大砂丘のひとつとも。遠州灘から吹く強い風によって生み出される「風紋」は一見の価値あり。連続するやわらかな曲線は、まさに風の芸術。砂丘を越えるとどこまでも続く太平洋が広がり、水平線に沈む夕陽の美しさは格別なのだと。『中田島砂丘』を後にし、国道1号線に向けて進む。そして国道301号線に入り浜名湖を渡る。弁天島に架かる『中浜名橋』からの国道1号線『浜名大橋』。そして中浜名橋を渡り『湖西市』に入る。『西浜名橋』を渡る。右手前方にオレンジ瓦の白の如き建物が。そして鷲津駅前のこの日のホテルに到着。部屋からの浜名湖の眺め。浜名湖の浜松方面。                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.21 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その13:五社神社・諏訪神社~JR浜松駅 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​次に訪ねたのが『五社神社・諏訪神社』。隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社とが、昭和35年(1960年)に法人格を一つとして五社神社・諏訪神社と称したものである。合併の後に神社本庁の別表神社に加列された。現社殿は昭和57年(1982年)の再建である。両社ともに徳川秀忠の産土神とされたことから、子守り、子育ての神として人々の崇敬を集めていると。朱の大鳥居の扁額『五社神社 諏訪神社』。『五社神社 諏訪神社 由緒』「五社神社曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した事に始まると伝えられる。後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(西暦1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(西暦1580年)遷座す。寛永11年(西暦1634年)家光公上洛の砌、社参し朱印300石を奉る。その節改めて社殿の造営がなされ、寛永18年(西暦1641年)竣工す。「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの五社や諏訪」と謡われ戦前まで国宝建造物に指定されていた社殿がこれである。諏訪神社延暦10年(西暦791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。弘治2年(西暦1556年)に曳馬城下、大手前に遷座される。秀忠公誕生に当り、五社神社と同じく産土神として崇敬され、天正7年(西暦1579年)徳川家康公、社殿を造営す。元和元年(西暦1615年)、秀忠公、社地を杉山に改め、更に寛永11年(西暦1634年)、家光公、社参し朱印300石を奉ると共に現在地に社地を遷し、寛永18年(西暦1641年)竣工す。国宝建造物に指定されるも、昭和20年(西暦1945年)戦災により五社神社と共に消失す。五社神社 諏訪神社昭和37年(西暦1962年)、両社が合祀され、新たに五社神社諏訪神社として発足する。                         【五社神社諏訪神社HPより】」『光海霊神(うなでりのみたま)の碑』。賀茂真淵が、師の森暉昌(もり てるまさ 荷田春満の弟子、五社神社神職)を顕彰して明和四年(1747年)に建立に建立した碑。この碑は現在、ここ五社神社・諏訪神社にあるが、第二次世界大戦中1945年6月18日の空襲により碑の上部が破損している。「賀茂真淵大人がその師、五社神社神主森暉昌大人の功業を記したる漢文体の誌銘なり。真淵大人の心情を遺憾なく吐露せしものなり。森暉昌大人は諡号を「光海霊神」と称す。近世国学の創始者荷田春満大人の門流にして賀茂真淵大人若年の学父とも尊親したる碩学なり。この碑は明和4年5月建立せらる。惜しむらくは昭和20年6月18日戦火により上部損壊せしも真淵大人の本意はここに歴然として存す。」『拝殿』へ向かって進む。『手水舎』。「徳川3代将軍家光公 寛永11年7月当社に参詣あり。時の浜松城主高力忠房を普請奉行として、社殿を修造せしむ。完成の後、本手水鉢寄進す。この手水鉢は花崗岩を素材とす。四方に枠取りなく素朴なる形式と水穴深く角を正確に掘たるは、古式に属し、貴重な文化財なり。正面に次の如く刻す 奉寄進 五社大明神 寛永十五年戊寅年五月吉日 高力攝津守従五位下  平忠房高力忠房は2代将軍秀忠の寵を得、元服の際 「忠」の一字を賜り 忠房となのる。温厚篤実なる人格は、領民に敬慕されたり。」『拝殿』。五社神社は、太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神の五柱の神を主祭神とし、ここから「五社神社」という社名になっている。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して現在の五柱となったものと見られている。戦国時代初期の曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建したのに始まるといわれる。後に徳川家康が浜松城主になり、天正7年(1579年)に三男長松(後の徳川秀忠)が誕生すると当社を産土神とし、現在地に社殿を建立して天正8年(1580年)7月に遷座、社領15石を寄進した。慶長15年(1610年)に秀忠から100石が寄進された。寛永11年(1634年)の家光上洛の際、東照宮(徳川家康)を勧請し、200石が加えられ、以降、300石の朱印地を領することとなった。明治6年(1873年)に県社に列格した。かつての社殿は寛永18年(1641年)に家光の命で再建されたもので、大正3年(1914年)に特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されたが、昭和20年(1945年)6月18日に第二次世界大戦の戦災(浜松空襲)により全焼した。焼失した社殿は、拝殿・石の間・本殿が一体となった権現造であった。-御祭神-[五社神社]     太玉命 武雷命 斎主命 天児屋根命 姫大神 (相殿) 応神天皇 舎人親王 菅原道真公 徳川家康公『狛犬』(右)。『狛犬』(左)。拝殿の『扁額』。諏訪神社は、延暦10年(791年)に坂上田村麻呂が東征の折に敷智郡上中島村(現在の浜松市天神町)に奉斎したのに始まるとされる。幾度かの変遷を経て、弘治2年(1556年)に神託により浜松に遷され、五社神社と同じく徳川家の崇敬を受けた。寛永11年(1634年)の家光上洛の際に、五社神社と同じく東照宮を勧請し、社領の加増を受け、以降300石の朱印地を領することとなった。寛永18年、家光の命により現在地の五社神社社殿の隣に社殿が造営され、遷座した。旧社殿には元和元年(1615年)と寛永18年(1641年)の棟札があった。この社殿は様式的にみて、元和年間建立のものを寛永年間に移転改築したものとみられる。この旧社殿は昭和13年(1938年)に当時の国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されたが、昭和20年6月18日に戦災により全焼した。権現造の社殿のほか、透塀、唐門、楼門を含む4棟が旧国宝に指定されていた。-御祭神-[諏訪神社]     建御名方命 八坂刀売命 事代主命 (相殿) 徳川家康公拝殿の内部。同行の旅友は昭和二十二年生まれ。『五宝稲荷社』。拝殿前から鳥居方向を見る。『社務所』。御朱印を頂きました。『浜松復興紀念館』の裏手を通る。浜松市は太平洋戦争において艦砲射撃を含め、実に27回に及ぶはげしい空襲を受け、市街地の大部分が焦土と化しました。戦後いち早く着手した復興土地区画整理事業も、昭和58年3月中央工区の換地処分を最後に長期間にわたる事業が終了いたしました。浜松復興記念館は、この事業の完成を記念して昭和63年に開館しました。ザサシティー浜松のトルコサンドウィッチ「ケバブ」の専門店『Mega Kebab』で一休み。伸び~~る伸び~~るトルコアイスクリームを楽しむ。光の芸術。浜松駅前モール街店を散策。「カルミア」か?遠鉄電車(赤電)新浜松駅前。新浜松駅前カリヨン『​友愛の鐘​👈リンク』。1日6回、定時に曲が鳴るのですが、四季によって奏でる曲が変わるというのが特徴的。『浜松アクトタワー』浜松駅北口前をエスカレーターで地下に降りると、階段の左:西側は滝と噴水のあるサンクンガーデンになっていた。蓮田修吾郎(金沢/1915-2010)作の巨大なモニュメント『伸びゆく浜松』。滝が涼しげに。地上を見上げる。浜松駅前地下広場と周辺施設を結ぶ接点で、空の見える解放された半地下空間。半地下から上部へかけて立体的に都市景観をとらえるダイナミックな空間構成がすばらしく、全国的にみてもユニークな施設であると。浜松市のゆるキャラ・出世大名「家康くん」の「モザイカルチャー」のある噴水前。「モザイカルチャー」とは花や緑を組み合わせて、色や特徴を生かしながら形にする作品。骨格に土を詰め込み、表面に植物や花を植えてこしらえる。00年のモントリオール大会から使われ始めた新しい言葉で、「モザイク」(寄せ集めの模様)と「カルチャー」(文化)を組み合わせた造語であると。再び『浜松アクトタワー』を。時間はまだ14:47。駅の中央通路には、『リニア中央新幹線の開業に向けて』のパネル展示が。品川から名古屋まで最速40分と。しかし、未だ名古屋以降のルートは未決定?山梨リニア実験線を走行するL0(エル・ゼロ)系。浜松市のゆるキャラ・出世大名「家康くん」人形もお土産に販売中。『​浜松駅南口のカリヨン​👈リンク』の下の大きな大理石の球。噴水の水圧で浮き上がりゆっくりと自由に回転していました。『元祖 日本で二番目に大きいたい焼き』。『二番目商法』?ちなみに、日本で一番大きいたい焼きは、60cm、3.5kgらしい。                             ​その12​  に戻る。       ・・・旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松) 完・・・ 2019.06.20 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その12:二の丸跡~浜松市公会堂・児童会館跡 今日から、いつもの旅友Sさんと『歴史を感じる 中国・東北地方7名所大周遊8日間』に行ってきます。『中国・東北地方7名所』とは日本では『旧満州』とも呼ばれるハルビン(哈爾浜)、長春(旧新京)、瀋陽(旧奉天)、丹東(旧安東)、本溪、大連、旅順で、これらの都市を8日間で巡る旅です。ハルビン(哈爾浜)は我が亡き父が、終戦の2年前に行っていた場所なのです。図書館で本を借り、少しばかりの予習も。昨日、添乗員の男性から電話連絡が在り、ツアーは11名と予想より少なかったのです。今回もトランクとリュックで参加します。今回の宿泊ホテルは、幸いどこも街中にあるようですので、早朝散歩で朝の街の姿も楽しみたいと思っています。--------------------------------------------------------------------------------------------------​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​そして旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)の続きです。『二の丸』「本丸の東に位置して土地も一段と低い。ここは城主の家と浜松藩の政治をおこなう政庁があり、江戸時代を通じて藩の政治の中心であった。広さはおよそ五〇〇〇m2(一五〇〇坪)、主な建物は表御殿(藩の政治をする所)と奥御殿(城主の家)であり多くの部屋があった。」現在は市役所と元城小学校体育館が建てられている。」本丸の東どなりにあり、土地も一段と低くなっている。本丸との間には空濠があり東側に2代将軍秀忠が生まれた御誕生場がある。この二の丸と、これに付属する北側と東側に広場があり、周囲を低い石垣でかこむ。二の丸には城主の居館があり、また浜松藩の政庁も設けられて江戸時代を通じて藩政の中心であった。『本丸』「天守閣が城の象徴なら、本丸は本拠。普通の城は天守閣を囲むように本丸が配置されているが、浜松城は、斜面を階段のように利用したため、天守閣と本丸が東西に線上に並んでいる。本丸は、天守閣の東、天守台より約17m下に設けられた。南面に鉄門がある。ここには富士見櫓と菱櫓があり、鉄門の西の石垣には多門が設けられ厳重な構えになっていた。」『若き日の徳川家康公像』を再び振り返る。『家康在城時の浜松城Ⅰ』「『武徳編年修正』によると、1569年(永徳12年)5月7日に、「愼君引馬ノ城へ帰リ玉ヒ城ノ名ヲ浜松ト称スヘキ由」tぴう記述があり、家康が城の名を浜松に改称したと考えられます。これにより近世都市「浜松」の名前が定着しました。家康が正式に浜松城に移った時期は、文献によってずれがありますが、1570年(元亀元年)とされています。その後、1577~1582年(天正5年~10年)に浜松城の普請が行われています。家康は、前身の引馬城を徐々に拡張しながら、時間をかけて浜松城・・・」『家康在城時の浜松城Ⅱ』。「今川氏の滅亡によって、遠江は家康と甲斐の武田氏との戦場となります。家康は浜松城を本拠地として、各地の城を補修、新築しながら、その勢力を急速に拡大していきました。一方、武田軍は、駿河や東三河方面から遠江に侵攻して、各戦いにおいて勝利を重ねながら、浜松城に迫っていました。1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いでは、城の北西部にある犀ヶ崖付近まで武田軍に攻め込まれ、家康は命からがら浜松城に逃げ帰ったと伝えられています。当時の浜松城は武田氏との戦いにおいての出撃点であり、防御の要となる重要な城であったと考えられています。」『家康在城時の浜松城Ⅲ』。「家康在城期の浜松城は、石垣や瓦葺きの建物がない、戦国時代の実用的な土づくりの城であったと考えられています。イメージ図では、堀と土塁、木製の柵をめぐらせた曲輪を配し、簡素な物見櫓と板葺き屋根の建物を表現しています。これまでの発掘調査により、家康在城期とされる異物が元城町王将宮、作左曲輪、清水曲輪から出土していますが、旧元城小学校内で発見された井戸跡からは、瓦片が出土しており、家康が瓦を使った建物の造営に着手していた可能性も考えられます。」『家康在城時の浜松城Ⅳ』。「堀の特徴堀の規模は、幅9.7m、深さ1.7mであり、近代以降に削り取られた地盤の高さを考慮すると、本来の深さは、3m程であったと推定されます。堀の斜面には石垣がにことから、いわゆる「土づくり」の構造であったことが分かっています。」『新たに発見された石垣 発掘調査により判明』「この石垣は、2014年(平成26年)に行った発掘調査によりはっけんされました翌年には石垣部分の全面検出を行っています。発見された石垣には、天守台と同様に自然石を利用して積み上げられた野面積であり、石を横長に配し、横に目地(つなぎ目)が通るようにする布積みといわれる石積み技法がみられます。この石垣の状況から、堀尾吉晴在城期(1590年代)とされる遺構と考えられます。遺構の保護をはかりながら、2018年(平成30年)に整備を行いました。整備の主な手法は次のとおりです。・石垣上部に同じ石材を貼り付け、風合いを整える。・石垣下段に盛土を行い、基礎部分の劣化を抑える。」『浜松城の変遷Ⅰ』。「①今川氏支配下による引間城の時代(16世紀前半)浜松城の前身は、15世紀頃に築かれた引間城です。引間城は引間宿の西側に並ぶ丘陵地に築城されました。築城時の城主は不明ですが、16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。この城は、4箇所の曲輪を複合した方形の構造をしており、現在も浜松城公園の北東部にある元城町東照宮境内にその名残を留めています。」②徳川家康による浜松城築城期の時代(1580年頃)1570年(元亀元年)、今川氏の滅亡によって、徳川家康は三河の岡崎から浜松に移りました。引間城は浜松城と改称され、甲斐の武田信玄の侵攻に備える前線基地として拡張、整備されました。浜松城は、軍事施設としての実用的な城であったと創造されますが、家康在城期の城の具体的な記録や絵図は残されていません。近年の発掘調査によりその姿が解明されつつ有ります。『浜松城の変遷Ⅱ』。「③堀尾吉晴による織豊系城郭化の時代(1590年~1600年)1590年(天正18年)の小田原合戦後、豊臣秀吉によって家康は関東に威風され、その後、秀吉の重臣であう堀尾吉晴が城主となりました。吉晴は豊臣氏の権威を示すために、当時の最新技術である高石垣や豪壮な天守を備えた織豊系城郭に造り変えました。現在、浜松城に残る石垣は、吉晴在城時に築かれたものと考えられています。④徳川譜代による近世浜松城の時代(17世紀前半以降)1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで家康が西軍に勝利すると、浜松城は徳川譜代の大名が治める城となりました。戦乱の時代が終わり、浜松城は行政施設としての体裁が整えられました。豪壮な天守は17世紀前半に失われたとみられますが、三の丸の拡張や大手門の新設などが城下町の整備と一体となって行われました。」浜松城公園 本丸南広場より浜松城の勇姿を見る。ズームで。『本丸南の空堀』。「この堀は、天守曲輪を含む本丸一帯の防御機能を高めるために設けられた空堀でした。この堀の特徴は、空堀の中央部に土手(中土手)に設け、起伏(高低差)をつくり出すことで、敵の侵攻を鈍らせ、鉄砲や弓矢での攻撃をしやすくしたつくりであったと考えられています。さらに、本丸に近い北東部には袋地のような箇所を設け、堀の奥まで侵攻した的が塀沿いに移動してきたところを三方(前方、左右)から攻撃できるように工夫をされていたと考えられています。なお、この堀は公園南側の道路の下にあると考えられていますが、その大きさ(範囲)については、明確になっていません。」三方ヶ原の戦いで敗れ、浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでこの松に掛けたという伝説から、この名が付けられました。この松は浜松城内の堀の近くにあったといわれています。「元亀3年(1572)家康は三方原の合戦から城に帰り、大きな松の木陰で休んだ。そのとき鎧を脱いでその松に掛けたことから、鎧掛松と呼ばれている。この松は昭和56年に元城町の人々の手により植樹された三代目。初代は浜松城内の堀のそばにあった。また当時鎧掛松近くの清水で合戦により疲れた馬の体を冷やしたところは馬冷といって、その地名が今も浜松町内に残っている。」『連尺』交差点手前が『浜松城大手門跡』。この付近の道路中央部に、浜松城の正門つまり大手門があったのだと。南面する間口8間(約14,6m)奥行4間(約7,3m)の瓦葺の建物で常に武器を備え、出入りが厳しく取り締まられていたと。『浜松城大手門跡』碑。「この付近の道路中央部に、浜松城の正門つまり大手門がありました。南面する間口8間(約14.6m)、奥行4間(約7.3m)の瓦葺きの建物で、つねに武器を備え、出入が厳しく取り締られていました。」。『高札場跡』前。『高札場跡』谷島屋書店前rあった『高札場跡』碑。『谷島屋書店』と刻まれた石碑の文字は島崎藤村の筆によると。「昭和13年(1938)連尺町本店が古風な土蔵造りから洋風の近代店舗に生まれかわり、文豪、島崎藤村の手になる大文字が大理石に刻まれて店頭高く掲げられました。 この文字について藤村は「筆を執るまでに永い時間を費やしたが、ある朝大木のたたずまいを見て心がきまり、短い時間で書き上げた」と語れました。 それから7年後、戦火によって砕かれましたが、昭和47年(1972)藤村生誕100年と谷島屋創業100年を記念して、遺された写真により縮尺復刻したものです。 島崎藤村の「簡素」な風格をよく伝えています。」と。「この付近の車道中程に、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。城下・宿場の人々に法令や犯罪人の罪状などを周知させるために書かれた木札を高札とか制札といいます。」『佐藤本陣跡』「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松の本陣6ヶ所の内のひとつ、佐藤家の本陣跡で。建坪がおよそ225坪(約745㎡)ありました。」『佐藤本陣跡』の直ぐ先にあったのが『江馬殿小路跡』。『江馬殿小路跡』の説明板。「今の連尺町・伝馬町・肴町の町境にあった小路で、幅は一間半(約2.7m)あった。 肴町に魚市場があった頃は大八車の往来が盛んで、両側には飲食店を扱う店があり、一名”うまいもの小路”ともいわれていた。 映画監督木下恵介氏の生家尾張屋もこの小路中程の南側にあった。 古文書「曳駒拾遺」によると、飯尾豊前守連龍が曳馬城にて浜松を治めていた永禄の頃、家老の一人江馬安芸守泰顕の屋敷が今の五社小路の下あたりにあったことから、 この屋敷の脇道を江馬殿小路と呼ぶようになったという。 また、江馬殿小路は俗称沼殿小路とも呼ばれた。 終戦後の区画整理で住宅が南によったためになくなってしまったが、ここにあった老舗の中で肴町の桝形、弁いち、伝馬町の柳川亭、千歳町の井口堂、高町の久の秀 などは今も伝統の味を伝えている。」三菱UFJ銀行前、地下に潜る階段手前にあった『川口本陣跡』。「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松の本陣6ヶ所の内でもっとも新しくできた川口家の本陣跡です。建坪がおよそ163坪(約540㎡)あったといいます。」浜松信用金庫(はましん) 伝馬町支店前にあったのが『杉浦本陣跡』。元亀元年(1570)家康入城と共に名主役に、慶長6年(1601)伝馬制が定められた時、問屋役を命じられた。室町後期から続く古い家柄。『杉浦本陣跡』石碑の脇の道路入口に。「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松の本陣6ヶ所の内でもっとも古い杉浦家の本陣跡です。建坪がおよそ272坪(約900㎡)ありました。」『川口本陣跡』の対角線方向、伝馬町交差点の角には『梅屋本陣跡』が。「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松六本陣の内梅屋家の本陣跡で建坪は180坪(約600㎡)でした。国学者賀茂真淵(本名庄助)は梅屋敷の婿養子でした。」『本陣跡』石柱。この後、伝馬町交差点を西に向かう。浜松市中区伝馬町交差点付近のビルの壁画。アルゼンチンを代表する英雄、チェ・ゲバラとマラドーナ。なぜこの二人?サッカー王国静岡県なのでマラドーナはともかく、浜松の街角にゲバラは??。栄町交差点を通過する。この周辺は完全にモール化されていた。右手にあったのが『金山神社』。短い参道。『拝殿』。金山神社の『絵馬と献額』。「献額」とは実物を額装して、神社に奉献する事。例えば、刃物、鏝、鋏、針等を使っていた職人さんが、種々の事情で仕事を辞めた時、奉納するのだと。『金山神社 沿革』。美濃の南宮大社は記紀時代よりなる、重要文化財にもなっている有名な神社で、御祭神の金山彦神(かなやまひこのかみ)・金山姫神(かなやまびめのかみ)は鉱山の神様。鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神である。当然この金山神社の御祭神も同じ金山彦神・金山姫神である。道路の反対側に白き建物が。『木下惠介記念館』。木下惠介が浜松市出身の映画監督であることから、同市に設置されている。記念館は、浜松市指定有形文化財「旧浜松銀行協会」に設置されている。第一展示室には、木下惠介の書斎が再現されており、過去の映画作品も閲覧することができる。第二展示室では、木下惠介の生い立ちをたどる写真や映画ポスターなどが展示されている。そのほかに、建物の設計者である中村與資平の資料室(中村與資平資料室)もあると。五社公園(浜松市役所の跡地)への階段を登ると右手に『行幸記念碑』が。『浜松市公会堂・児童会館跡』。ズームで。ネットから。 【https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/koho2/pr/fb/konjyaku/11.html】よりU字型のモニュメント。『ステンレスの樹 清川泰次』であると。                              ​その11​  に戻る。                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.19 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その11:松下之綱屋敷推定地碑~浜松城・若き日の徳川家康公の銅像 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​『遠江分器稲荷神社』を後にし、二俣街道を北に向かって進み左折すると左手にあったのが『松下之綱屋敷推定地』碑。「松下屋敷は戦国時代の国人領主、松下氏が居を構えた場所で、別名「頭陀寺城」とも呼ばれています。屋敷の敷地は100m四方ほどありました。この屋敷の主であった松下之綱(ゆきつな)には、織田信長に仕える前の豊臣秀吉公が奉公したと伝わります。」S字カーブの途中にあったのが『霜垂口(しもだれくち、下垂口)』「古城(引間城)の東側の城門でしたが、浜松城の増築以後も浜松城の北東の城門として維持されてきました。浜松城の天守台の向きからも、当初はこちら側が城の正面にあたっていたと想像されます。なお、道路の食い違いは、浜松城下で唯一現存する貴重な防御上の遺構です。」前方に『浜松城の天守閣』が姿を現した。ズームで。右手に『東照宮』と刻まれた石碑。東照宮の鳥居と社殿をズームで。浜松城前の県道132号線に出る。右手にホテルコンコルド浜松が見えた。『東海道五拾三次之内 濱松 冬枯ノ図 安藤広重』街道脇に立つ大きな杉の木の根元で、焚き火をしながら暖をとっている旅人たち。焚き火から立ち上る煙が黒から白へと変化している様子を良く表現している。刈入れの終わった田んぼの中に立て札のある松林があるが、これは「颯々松(ざざんざのまつ)」と呼ばれた旧跡で、その昔将軍足利義教が松の下で酒宴を催した際に「浜松の音はざざんざ」と謡い、以来ざざんざの松として有名になったという。「ざざんざ」とは、風の音を表しますが、広重の描いた内容は全くの無風の好対照の情景です。画面右奥に見えるのが浜松の宿場で、浜松城の天守閣も見える。この「颯々松」はこの場所から直線距離で北東6~700m離れた、遠鉄電車の八幡駅近くにある「浜松八幡宮」近くにあったとのこと。左に曲がり浜松市役所方面に進む。市役所手前を右折して坂道を上って行った。突き当りを左折。右手に『浜松城公園ご案内』。安政年間の浜松城および城下町の様子と、現在の浜松中心部との比較ができる浜松城公園周辺案内図。ここを右に曲がり坂を上っていくと天守閣方面に。浜松城は、三方ケ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広忠。母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から近江に入り、各地を転戦して引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めた。家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、在城17年に及んでいる。有名な姉川、長篠、高天城、小牧・長久手の戦いもこの期間に行われ、特に元亀3年(1572)の三方ケ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の戦いであった。家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く試練の年でもあった。当時の城郭は、南北500m、東西約450mで、三方ケ原台地の斜面に沿い、天守閣・本丸・二の丸・三の丸がほぼ一直線に並び、梯郭式の築城法に属している。その他作左曲輪(さくざくるわ)、出丸等もあった。この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉春氏によって天守が築かれたといわれているが、江戸に幕府が開かれてからは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩制約260年の間に再任を含めて25代の城主が在城した。在城中に老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されており、中でも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。そのことから、浜松城が出世城ともいわれるようになった。明治維新以来、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、昭和33年春浜松市民の努力が結実し、旧天守閣跡に、新天守閣が再建され、昭和34年6月1日市の史跡に指定された。『浜松城公園園内マップ 園内のみどころ』。『鉄門(くろがねもん) 浜松城の要となる門』「鉄門は、文字通り扉や柱などの門の一部に鉄製の部材を使っていた門であったと考えられます。本丸への正面出入口として重要な門であり、天守門と同様に門の上部に櫓を有する櫓門でした。江戸時代前半の絵図(左上)には、門の内側に枡形(四角形)の虎口(侵攻してきた敵を前後左右から攻撃できるようにした空間)が描かれ、高い防御機能を持っていたことがうかがえます。1872年(明治5年)まで鉄門は存在していましたが、その後の払い下げ等により失われています。なお、鉄門の推定位置については、東側の歩道路面にあるプレートにより確認する事ができます。」『天守門』そして『天守門への階段』を支える石垣を見上げる。『当時の石垣』。天守前広場に入る所に積まれている石垣。「これは、四百年前の家康築城の頃の面影を残す貴重な石垣です。登ったり石を引き抜くことは絶対にしないで下さい。」『地震の際には、すみやかに石垣から離れてください。』と。『天守門』を見上げる。浜松城の中枢にあたる天守曲輪(てんしゅくるわ)の入口に建つ天守門は明治6年(1873年)に解体されましたが 市により 櫓が載る建物である天守門の再建を行い 2013年〜2014年に掛けて天守門が原位置に復元されています。『天守門』「浜松城の天守門は天守曲輪の大手につくられた門で、安土桃山時代(16世紀末)に建てられ、江戸時代に改修が繰り返された後、1873年(明治6年)に取り壊されました。2009年度および2010年度の発掘調査で見つかった礎石や、19世紀の絵図などをもとに、2014年(平成26年)3月に復元されました。総工費は1億7000万円で、三浦正幸先生が復元図を作成されたそうです。高さ9.4m、幅11m、奥行き5mの巨大な櫓門で、門の上にある櫓には武器や食料を保管し、籠城戦になった際にはここから攻めて来る敵を弓矢や鉄砲で迎え撃てるようになっていました。天守がなくなったあとも、そのまま明治維新まで残されていたと考えられています。」『門脇(もんわき)の鏡石(かがみいし)』「天守門の石垣正面は、左右ともに隅に巨石が用いられている。この巨石を鏡石と呼ぶことがある。かつて城の壮大さや城主の権力を見せるため、門の両側や周辺に意図的に大きな石を用いたと言われており、彦根城太鼓門櫓や、岡山城本丸、松本城太鼓門の石垣等に類例がある。巨石を用いた部分は算木積(石垣の角部を強固にするために、長い石材の長辺と短辺を左右交互に振り分けて積む積み方)になっていない。また、横長石も不揃いで、算木積とはいえない部分もある。天守を見上げる。『天守の礎石(そせき)』「浜松市では平成21年度から天守門跡の発掘調査を行い、建物の痕跡を確認した。「安政元年(1854)浜松城絵図」の天守門が描かれている場所からは、長軸1.0〜1.4m、短軸0.9〜0.7mほどの扁平な礎石が4箇所と、礎石の抜取穴(ぬきとりあな)2箇所が発見され、門柱の配置や門扉の大きさが確認された。また、建物の屋根瓦や鯱瓦(しゃちがわら)の一部、土塀の瓦も多数確認された。門の両脇の石垣上部からは、壁から剥がれ落ちた漆喰の痕跡も見つかっており、江戸時代の天守門の姿を明らかにする際の参考にした。礎石に載る門柱6本は、不整形な両脇の石垣の開きに沿うように配置される。このような柱の配置は、桃山時代から江戸時代初期の櫓門にみられることから、天守門は、幕末まで古式な城門の特徴を継承していたことがわかる。天守門の復元工事では、本来の礎石配置を忠実に再現し、地下の礎石のほぼ真上に、新しい礎石と門柱を配置した。石は築城時の石垣に用いられたものと同じ浜名湖北部産の珪岩(けいがん)である。」『浜松城の石垣(野面(のずら)積み)』「浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、四百年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。この石垣は野面積みといい、自然石を上下に組み合わせて積む方法で、慶長(1596年~1615年)以前はこの方法が多く用いられていました。石の大きい面を内側にして長く押し込み(牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を1~1.5mほど詰め、さらに砂利を入れてあるので水はけもよく、水圧で崩れることがありません。石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は乱雑ですが、堅固に造られています。浜松城は、特に天守台と天守門趾付近の石組みが硬く、石も大きなものが使われています。また、突角部には長方形の石材を小口と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。石垣の斜面は直線的で、57度~78度の傾斜をしています。石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる物がほとんどで、そのほか石灰岩、結晶片岩などが見られます。珪岩は浜名湖北岸の山々でみられ、現庄内地区の大草山や根本山、対岸の湖西市知波田付近で切り出され、左鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、二代城主堀尾吉晴の頃(1590)と考えられています。」『浜松城跡』「浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(一五七〇)六月に入城し、十七年間在城した。東西六〇〇メートル、南北六五〇メートルの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここは、その天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。」天守を天守曲輪から見る。『天守曲輪(くるわ)』井戸の傍に説明板が立っていました。曲輪というのは、城や砦を石や土で囲んだ所をいう。ここは丘陵の西のはしの最も高い所にあり北東と南東の方向にはり出した菱型(東西56m・南北68m)に近い形をしている。周囲は低い土塁(土でつくったへい)があり、その下に石垣をめぐらしている。東に天守門、西に埋門(うずみもん)があり、内部は広場となっていた。江戸幕府を開いた初代将軍・徳川家康公が29歳から17年間も在城していた城。後には、この浜松城主になることが幕閣への登竜門とさえ言われていたとされており、別名出世城と呼ばれる。天守閣は三層四階構造で、昭和三十三年の再建である。天守台にあるハートの石浜松城の天守台にはハートに見える形をした石があり、その石探しがちょっとしたブームになっているこの真ん中の石だそうです。ななめになってますが、いわれてみればハートに見えなくもない。『天守門』 「浜松城の第二代城主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失していたと考えられる。天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873)に解体され、払い下げられた。「安政元年(1854)浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が示されており、天守門でも櫓の壁が一部潰れたものの、深刻な被害を免れた事が記載されている。絵図には天守曲輪の外周を土塀が囲んでいる様子も描かれている。天守門は、門の上部に櫓が載る櫓門と呼ばれる形式がとられている。天守門のように櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓(わたりやぐら)は、石垣を多用した西日本の城に多く見られる。天守門(復元)の概要は次の通り構造:木造・櫓門・入母屋造り・本瓦葺き建築面積:78.01m2 延床面積 56.74m2門部:正面柱間4.09m、冠木(正面梁)上端高4.12m櫓部:桁行10.91m(36尺)、梁間5.00m(16.5尺)高さ:10.28m(門下から櫓屋根の大棟上まで)土塀:木造塀瓦葺き 門の両側約9mずつ」マンガ『センゴク』の画も展示されていた。(三方ケ原合戦の様子が描かれていると)『天守台』「浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台と呼ばれる突出部が付いている。また東側には、付櫓と呼ばれる張り出し部分があり、現在は復興天守閣への入口として利用されている。浜松城の天守は第二代城主堀尾吉春の在城期(1590頃)に築かれた説が有力だが、17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと考えられている。昭和33年(1958)に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと比べると小さいものである。かつての浜松城は、築城時期等から大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる「望楼型」であった説が有力である。その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも一回り大きい三重四階で、巨大な天守だったと考えられる。」浜松城天守入口。内部は資料館として使われており、徳川家康をはじめとした当時のゆかりの品々を見学することができます。『徳川家康の3D像』。2015年、徳川家康公400年記念事業として制作された30歳前後の等身大家康像。 「手相・しわ・毛穴」まで再現され、今までにない家康公の姿を披露しているのだと。『歯朶具足(しだぐそく)』(右)徳川家康が霊夢により作らせた具足で御夢想形あるいは御霊夢形とも称されています。兜に歯朶の葉形の前立がついていることから歯朶具足とも呼ばれました。『金蛇美具足(きんだみぐそく)』(左)総体が金泥または金箔でいろどられているために金蛇美具足と言われています。桶狭間の戦いのときに、19歳の松平元康(後の徳川家康)が着用したものと伝えられています。これも、徳川家康の武将姿の絵画であろうか?天守入口前から天守門を見下ろす。『井戸』天守前広場に入った所にあった。「この井戸は銀明水と呼ばれていたという。浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は、天守閣の地下室にある。直径1.3m、深さは現在1mほどになっており水はない。」『八幡台』。天守台の北西にあたり、五段の石垣により天守台より高く、面積はおよそ40㎡(12坪)あり、浜松城の中で最も高い所(419.9m)であります。城を守る神社(多分、八幡大菩薩)をお祀りした所だといわれてます。八幡大菩薩は武士の守り神として信仰されました。『門下の排水溝』「平成21年度からの発掘調査で、門下に瓦を用いた排水溝が発見された。丸瓦を使用して排水溝を狭くしている部分があることから、かつて礎石が存在していた時点には、排水溝が造られていたと考えられる。土層断面から、瓦の排水溝埋没後に礎石の抜き取りがあったことがうかがえる。排水溝は西側の雨落溝から屈曲し、南側の石垣に沿って配列されている。排水溝に使用された瓦は、江戸前期までの古い特徴をもつもので構成されているが、この排水溝がいつの時代に造られたものかは、正確には特定できていない。」再び天守を。『若き日の徳川家康公の銅像』「この銅像は1981年(昭和56年)に建てられました。「徳川家康公は天文11年(1542年)三河国岡崎城内に誕生した。父は松平広忠、母に生別、駿府に少年時代を過ごしたが、岡崎に戻り独立の一歩を踏み出した。元亀元年(1570年)遠江国へ進出、浜松に築城し、ここを根拠として着々と地歩を固めた。その間17年、武田信玄のために大敗を喫した三方原合戦、正室築山殿嫡男信康を一時に失うような家庭危機に遭遇したが、隠忍自重よくこれを克服し、東海を制圧、その領国は遠江・三河・駿府・甲斐・信濃の五か国に及び、海道一の弓取り武名を馳せるにいたった。そして常にこれを支えたものは浜松の地の利と人心の和であった。浜松より駿府へ、さらに江戸に移り、江戸幕府を開き、二百六十年余の泰平の基礎を固めたが、やがて駿府に退隠、元和2年(1616年)薨じた。乱世を生きぬいた努力と忍苦の75年であった。像は浜松時代の若き日の公の姿。手にしたのは勝草と呼ばれためでたい歯朶である。」                              ​その10​  に戻る。                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.18 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その10:蒲神明宮~遠江分器稲荷神社 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​琵琶橋の先、旧東海道・国道152号線を進むと、右手に『蒲神明宮(かばしんめいぐう)』の一の鳥居が。社殿はここから700m程先にあった。蒲神明宮は、藤原鎌足の子孫である越後守藤原静並公が伊勢大神のご神託を受け、蒲の生い茂るこの地一帯を開発し、大同元年(806)この地に伊勢神宮の御神体を分霊して創建した浜松市最古の神社である。境内には、厳島神社・五社稲荷神社・天王社など多くの境内社があると。『国史現存 蒲大神』と刻まれた石碑。浜松市東区神立町71-1にご鎮座する『蒲神明宮』藤原鎌足十世(ふじわらのかまたりじっせい)の孫、越後守静並(えちごのかみしずなみ)が伊勢神宮の神託を受け、この蒲の地を開拓し、美田(みた)550町歩(ちょうぶ)を神宮に寄進し蒲御厨(かばみくりや)となし、神明宮を創設したと伝えられている。以来、静並の子孫が神官と御厨(みくりや)の支配者を兼任し、蒲氏(かばし)を名乗った。明治6年、蒲神明宮と改称され今日に至っている。鳥居を潜り『蒲神明宮』に向かって歩き出し、「六間道路」を渡って進むがスマホ地図で確認すると、まだまだ先にあることに気が付き、この日は諦めて同じ道を戻ったのであった。拝殿(内宮)の写真。次回に訪ねたいと。        【https://www.wincl.wedding/hotel/detail2569/】よりそして再び旧東海道に戻り進み東区から中区に入る。更に旧東海道を進むと、街道に面して右手に臨済宗妙心寺派の『北野山龍梅寺』があった。龍梅寺の創建年代は不詳であるが、承応年間(1652-54)に創建されたと言われ、境内には、焼き餅を供えれば願い事を叶えてくれるという「焼餅地蔵菩薩」、東海道を通行中に急病で亡くなった松平伊豆守信祝の娘光の墓もあると。『臨済宗妙心寺派 北野山龍梅禅寺』と刻まれた寺標とその先に『山門』が。『山門』。山門の『北野山』と刻まれた扁額。『六地蔵』。『本堂』。創建は江戸時代初期とされ、東海道に面した禅寺として地域はもとより街道を往来する人々からも参詣されてきた。宗旨宗派は臨済宗妙心寺派で、インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。山号・寺院名 :北野山 龍梅寺宗旨・宗派 :臨済宗 妙心寺派住所     :静岡県浜松市中区天神町3-43 『本堂内部』。見事な天井画が並んでいた。『寺務所』。『焼餅地蔵菩薩』『堂内部』。提灯の模様が美しかった。『焼餅地蔵菩薩像』。なんとなくすらっと長身な御地蔵様なのであった。お顔をズームで。餅を持ってるとか焼いてるとか・・・。ヤキモチ焼いてイライラしている様子はなく、おだやかな表情、笑っているような・・・。由来書がなかったので、NETで調べてみると下記の記載が。「今は昔、三方原の片隅に小さなお地蔵さまが立っていた。誰が建てたのかはだれも分からない。村の人たちは、「原のお地蔵さま」と呼んで大切にしていた。ある日、近くに住んでいる農民の夢の中にお地蔵さまが出てきて、江戸の町へ連れて行って欲しいと言った。ふたつ返事で引き受けた農民は、次の朝、荷車にお地蔵さまを乗せて江戸へと向かった。しかし、天神町の竜梅寺の門前まで来た時に、急にお地蔵様が重くなり、一歩も進むことができなくなった。困った農民は竜梅寺にお地蔵さまをまつってくれるように頼むと、快く引き受け、お堂を建ててくれた。それから、竜梅寺のお地蔵さまへお願いすると願い事がかなうと評判になり、人々は願いをかなえてくれたお礼にと、焼いたやきもちを供えるようになったので「やきもち地蔵さま」と呼ばれるようになった。」と。『焼餅地蔵菩薩』の赤い幟が隙間なく並ぶ。モミジ葉も陽光を浴びて緑に輝く。そして再び旧東海道に戻ると前方に高層の『浜松アクトタワー』が姿を表した。右手に『浜松酒造㈱』が。裏にあるのが工場のようであった。1871年(明治4年)、現在地で、中村家が酒造業を興した。1998年(平成10年)、南部杜氏の修行した増井美和が入社、2009年(平成21年)、浜松酒造・静岡県初の女性の杜氏が就任した。2015年(平成27年)経営権が中村家から戸塚家へ譲渡され、現在当主・戸塚敦雄が、「出世城(しゅっせじょう)」、「葵御紋(あおいごもん)」ブランドの日本酒と、銘柄「出世城」の焼酎を醸造販売する老舗酒造メーカーである。「空樽 1樽 どれでも 500円」と。植木鉢等に欲しかったが・・・。浜松東警察署の先にあったのが『馬込一里塚跡』。「江戸日本橋より六十五里(約260㎞)の所。道の両側に五間(約9m)四方の土を盛り上げて塚となし、松・榎などを植え、旅人の目標とした。塚は明治10年(1877)頃には取り壊されたという。「馬込一里塚」の名称は静岡県史跡名勝天然記念物調査報告第三集(昭和2年)にみられる。また資料によっては「向宿一里塚」ともいう。この辺りは中世には宇間郷向宿、江戸時代は向宿村、現在は相生町という。」天神町交差点横奥にはNTTのタワーが。浜松市中区板屋町を進む。そして『東鎧橋(ひがしよろいばし)』を渡る。『浜松アクトタワー』が今度は左手に大きく。『浜松城』まで2.2kmとの表示が。浜松城標識の隣の電柱の下の木柱が『浜松宿外木戸跡』であったのであろう。『馬込川』に架かる『馬込橋』を渡る。この付近に「東番所」があり、いよいよ浜松宿が始まるのだ。東海道53次の29番目の宿場である浜松には、かつて本陣6、脇本陣0、旅籠94軒があったと。本陣が6軒もあるのは浜松宿と箱根宿だけであったと。馬込川の上流側を見る。『松江交差点』を渡る。浜松市中区中央3丁目を進む。ビルの間にあったのが『新組 新町屋台置場』。浜松まつりで引き回される御殿屋台の倉庫であろう。ネットで調べてみると、下の写真が格納されているようであった。     【https://www.instaguz.com/post/2057870456704196188_2875688331】より。右側に『夢告地蔵』(左)の堂が見えた。TBSの日曜ドラマ「仁」にも登場した、安政5年のコレラの大流行で死んだ人たちを供養するために建立された地蔵尊で遺族の香華が絶えなかったという。この地蔵様は江戸時代末期のものだが、廃仏毀釈で地中に埋められてしまった。ところが「助けてー、助けてー」と町民の夢枕に。 かわいそうにと掘り起こされてこの地に安置されたのだと。『​夢告地蔵​👈リンク』。『大日如来青面金剛三猿』と刻まれた石碑も。浜松市中区板屋町を進む。『アクト通り北口』静岡唯一の超高層浜松アクトタワー(212.77m)から北に伸びる、緑豊かな大通りの名称。階段を降りていくと、浜松駅、アクトシティー方面への地下道に繋がっている模様。『アクト通り』案内板。『遠鉄電車』の高架橋の下を通過。旧東海道を先に進むと、遠州鉄道鉄道線の高架下に『万年橋』があった。現在は暗渠となっている新川を跨ぐ橋であるが、幕末に河井次郎八が石造りの太鼓橋に架け替え、この時に長い歳月に耐えられるようにとの願を込めて 「万年橋」 と名付けられた。現在の橋は、昭和58年に架け替えられたものであると。田中屋の角を右折して旧東海道を離れて進む。そして右手にあったのが『徳川家康家臣 本多忠勝屋敷推定地』。『稲荷通り』と書かれた石柱も。「本田忠勝(天文十七年~慶長十五年 1548~1610)は酒井忠次・榊原康政・井伊直政とともに徳川四天王。江戸時代(十八世紀)に編纂された「曳駒拾遺」に「本多平八郎忠勝は分器稲荷社の西の家也と云へり」と記されている。」その先にあった『遠江分器稲荷神社』に立ち寄る。永禄禄11年(1568年)創建と伝えられている。旧境内850坪余り。分器宇賀大神とも号し約1500年前、22代清寧天皇の御代に天竜河原開墾の為、鎮座。徳川家康公が三河から浜松に入った時に倉稲魂神を祭神として社が構えられたという説や、昔この辺りが伊勢神宮の神領であった頃に創建され、坂上田村麻呂が東征の際、勝利を祈願したとの説も伝わっているそう。明治7年には三組町の秋葉神社に合祀されましたが、明治11年に再興が許されています。戦火前の社殿は徳川家康公の命により慶長9年(1604年)に建てられましたが昭和20年6月18日の空襲で消失しました。現在の社殿は戦後に再建されたもの。浜松まつりの田町の凧絵柄は、分器稲荷の神紋である宝珠から生まれたものなのだそうです。『拝殿』拝殿前には金色のキツネさんが。稲荷神社なので境内には、狛犬ならぬ金色の狛狐の姿も。他にも、色んな種類の狐の置物があった。更に近づいて。奉納された多くの幟。『本殿』。                              ​その9​  に戻る。 ・・・​つづく​・・・ 2019.06.17 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その9:天竜川駅入口交差点~琵琶橋 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​立場跡を過ぎると、左手に数本の『名残松』が疎らに(まばらに)立ち並んでいた。街道が緩やかに右にカーブするところ浜松橋羽郵便局手前の左筋に『南無妙法蓮華経題目碑』が建っていた。天竜川駅入口交差点が見えて来た。『東海道案内板 ようこそ浜松「東区」へ』『金原明善生家』、『金原明供養塔』、『法橋の松』、『蒲新明宮』が紹介されていた。現在地は『天竜川駅入口交差点』。まずは、天竜川入口交差点の北西角にある『六所神社』に向かう。この周辺一帯は橋羽(はしわ)と呼ばれていたと。『六所神社』。浜松市内にはこの『六所神社』が20箇所以上あるのだと。境内左手にあった『秋葉山常夜燈の建屋』が。中には何もなかったが火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が祀られているとのこと。「伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)は多くの神をお生みになられました。しかし、伊耶那美神(いざなみのかみ)は火の神である火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)をお生みになった際、御陰(みほと:女性陰部)に大火傷を負ってしまい病床に就かれてしまいました。病気でお苦しみになりながら病床で嘔吐し、糞尿を垂れ流してしまいます。ところが嘔吐物から鉱山の神二柱、大便からは土の神二柱、尿からは水の神と生成の神が成りました。」と。由緒書きと手水舎。由緒書きは文字がかすれて解読不能。正面に『社殿』。六所神社の創建年代は、永禄年間(1558-69)であるが、その後、慶安元年(1648)に再建された。境内には、「お宮の松」 と呼ばれる直径3m、樹高17m、推定樹齢260年前後の黒松があったが、昭和54年(1979)10月19日の台風20号による被害のため伐採されたと。静岡県内には「お宮の松」が熱海そしてここ天竜川町にあったが、他にもあるのだろうか?そして天竜川駅に向かって歩き、『妙恩寺』を訪ねた。左手に『黨山草創六百年紀念』と刻まれた石碑と『山門』。山門右側には案内板が。『妙音寺由来』日蓮宗長光山妙恩寺.妙恩寺は、鎌倉時代の応長元年(1311)日蓮大聖人の孫弟子日像菩薩を開山とし、金原法橋左近将藍を開祖として出来た、遠州最初の法ヶ道場である。妙恩寺には、三方原の戦いに負けた家康が逃げ込んできたという伝説がある。境内には、清正堂・開山堂のほか金原善明の供養塔がある。こちらにも『妙恩寺』。「日蓮宗の古刹。応長元年(1311年)開創。東海道沿いの寺道に妙号石碑がある。かっては周辺まで塔頭(たっちゅう)寺院が並んでいた。今川家・武田信玄・徳川家康にかかわる寺宝がある。境内には、金原明前の供養塔などがある。」山門の扁額には『長光山』と。『鐘楼』。『手水舎』『本堂』。本堂内部。内陣と外陣の狭間、浄土を透かし見る本堂の格子戸が見えた。『清正堂(せいしょうどう)』。家康公お手植えの柘植の木が右手に。扁額には『清正公(せいしょうこう)』と。『清正堂(清正公堂)1/2』妙恩寺の12代目の住職が加藤清正の子であった縁で、清正公が祀られていると。『清正堂(清正公堂)2/2』『金原善明の供養塔』金原明善は江戸時代の名主の家の出身であるが、金原氏は江戸時代以前はこの地の豪族であった。ここ妙恩寺は明善の先祖である金原左近将監、法号法橋が開基である。『開山堂』開山は日蓮上人の法孫・日像上人。日像といえば、京都で最初の日蓮宗道場である、妙顕寺をはじめ、妙蓮寺、宝塔寺を開山した上人であると。扁額には『御開山』と。『開山堂』永代供養墓の『常経殿(じょうきょうでん)』扁額には『常経殿』と。『常経殿』。六角形の『宝蔵』。宝蔵には日蓮上人直筆の本尊や御書の断片、日像上人の画像や戦国武将たちの判物なども納められていると。寺紋は『丸に出二つ引き』。寺で家康を匿った時、飯茶碗に二本の箸をのせて差し出したことから、賜ったとされる紋。『寺務所』。堂宇の配置、手入れの行き届いた境内に古刹の風格を感じたのであった。そして次に『法橋のマツ』を訪ねた。『法橋のマツ』「この松は、天竜川町日蓮宗妙恩寺の開基 金原法橋(左近将監)遺愛の松で、広大なその前庭にあったものであると伝えられている。地上2mの幹廻りは約5m。往時の枝張は東南より西北まで約18m、東西約12mである。樹高はおよそ14mである。樹齢は700年以上といわれている。」『法橋のマツ』を見上げる。『金原法橋庭前之松』と刻まれた石碑。少し離れて全体を。石碑『天然記念物金原法橋庭前之松』。支えられながらも、必死に生きていました。現在の姿は樹皮が失われた部分もかなりある。残念ながら、樹勢はあまり芳しくないようであったが、頑張ってほしいのであった。道端にはタチアオイ(葵)の花が。濃いピンクのタチアオイ。『東海道』と刻まれた石碑。旧東海道・県道312号線を更に西に進む。旧東海道に戻って、一本の名残松のある比較的広い十字路を越えると、右手に『浜松アリーナ』が。浜松アリーナは、各種スポーツ大会の会場、国際的な競技大会や各種文化イベントにも利用可能な多目的ホールである。更に旧東海道を進むと交差点右手にあったのが『六軒京本舗』。店のHPには「東海道は天竜川の渡しを西に越え、浜松宿に入る手前に、蒲畷(かんまなわて)十六丁の松並木があり、この地を六軒といいました。幕末の頃この地に元祖京次郎の妻まつが茶店を出し、夏の副食品として紫蘇巻を作り売り出したところ、東海道を往来する旅人に大変喜ばれ、以来六軒京の紫蘇巻として当地の名物となるに至りました。現在は、紫蘇巻の他に小菊巻・銘茶・椎茸等の副食品を中心として、幅広く皆様から喜ばれますよう努力しております。」と。道路沿いの赤紫蘇色(あかじそいろ)の塀が和を感じる美しさであった。更に進み旧東海道を左手に折れ、『子安神社』を訪ねる。『村社 子安神社』。『子安神社』子安神社は、この地の庄屋伊藤家の祖先が、寛永12年(1635)浅間神社の分霊を祭り、家の守護神としたことに始まるが、伝説には源範頼が娘の無事出産を願って創建した話が残されている。『社殿』。扁額?には『祭神 木之花咲耶姫命』と書かれていた。社殿内部。『子安町 屋台置場』。旧東海道が国道152号線に合流する子安交差点の左側に『東海道夢舞台「植松原」』が。植松から永田(現浜松市東区和田町)にかけての旧東海道は蒲畷(かばなわて、かんまなわて)と呼ばれる松並木の畷道であったとのこと。更に進み子安交差点から100m程先の、芳川に架かる『琵琶橋』を渡る。芳川の上流側。上流側の『琵琶橋』の欄干には鳥の姿が。下流側の欄干には菖蒲(あやめ)?の姿が。『びわばし』の文字が。                                      ​その8​  に戻る。                  ・・・つづく・・・ 2019.06.16 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その8:金原明善生家・明善記念館~立場跡 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​松林寺を後にし、更に浜松城に向かって進むと、直ぐ右手に黒い塀が重々しい『金原明善(きんぱらめいぜん)生家』があった。金原明善は、明治時代に、私財をなげうって水害で悩む天竜川流域の治水に尽力した人物。『金原明善翁生家』と刻まれた石柱と生家の門。現在は明善記念館( めいぜんきねんかん )として金原明善の遺品や資料を展示し、彼の業績を紹介していた。現在は、一般財団法人『金原治山治水財団』が金原明善生家<・明善記念館を運営していると。金原 明善(天保3年6月7日(1832年7月4日) - 大正12年(1923年)1月14日)は、明治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)出身。浜名郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。明善記念館は、その偉業を顕彰するために、1960年、生家の前を通る旧東海道を隔てた南側に、建築家十代田三郎(そしろだ さぶろう:1894-1966)の設計で建てられたものです。記念館には、治山治水や植林事業で使った測量器具、地図、請願書、公文書、私信、遺墨などが多数収蔵・展示され、当時の難事業の様子を知ることができます。展示室は1階と2階回廊部分に分かれ、1階には天竜川流域の治山治水、植林事業の計画書や申請書、実際に測量や植林に使用したさまざまな道具類や愛用したカバン、91才の最後の山林視察で使った籠などを見ることができた。2階の回廊には、親交のあった多くの著名人からの手紙や、明善直筆の遺墨などが展示されていた。大きな和室が続く。名善自筆の屏風。読んで内容が理解できれば最高であったが・・・・。この部屋でビデオ鑑賞。金原明善の生涯を画いた映画が製作されたと。金原明善は、幕末、明治に渡って活躍した浜松の偉人。社会企業家の草分けと言えるその実績と業績は、現在でも学ぶところが多々あります。金原明善とは如何なる人物なのか。なぜ、偉人として浜松史にその名を残しているのか。今また見直され、注目されている明善の生き方が紹介された『​金原明善の生涯​』👈リンクのビデオを鑑賞した。床の間のある和室には欅の一枚板のテーブルが。厚みもあり、重厚感と高級感が十分に。金原明善の写真。金原明善の業績は大きく分けて次の4つ・天竜川治水事業・天竜川流域の植林事業・北海道開拓・更生保護事業金原明善は、天竜川にほど近い現在の浜松市東区安間町で生まれました。農民でしたが、いわゆる富農と言われるような比較的裕福な家の生まれのようです。「あばれ天竜」と呼ばれていた天竜川の氾濫に悩まされ、全財産を投げうって天竜川の治水に努めます。1877年には時の内務卿大久保利通に謁見がかないます。内務卿とは今で言うと総理大臣のようなものです。天竜川の治水事業実施を嘆願します。金原明善は嘆願がかなわなければ死ぬ覚悟でこの謁見に臨んだそうです。金原明善の、全財産を投げうって天竜川の治水に努める熱意と事業家としての資質を認めた大久保利通は、金原明善の嘆願を受け入れ天竜川の治水事業を許可しました。この他教育にも力を入れていたようで、この自宅の2階を教室にして授業を行っていたと。名善書の掛け軸。『富在山林』:山林に冨在り『私心一絶萬功成』:私心というものがなければ万功は成るが、これに反して少しでも          私心があると、万功は望むべきもない。の文字が。『江戸時代の東海道:安間、中野町、天竜川西岸地区 絵図』田中茂助との写真。田中茂助は、林の下刈用の鎌の改良を命じ【金原鎌】をつくりあげた東京の鍛冶職人の棟梁。1877年(明治10年)、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿大久保利通に築堤工事実現の為に謁見した。明善自身も一介の田舎農民が内務卿への謁見は叶わないと思っていた。ところが快く大久保利通との謁見は実現した。それは長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している明善の話が大久保利通の耳に入っていたからである。そして、近代的な治水事業が始まった。それは、主に堤防の補強・改修をはじめ・天竜川を西洋式の測量器を使用して全測量・鹿島村から諏訪湖に至る高低測量・天竜川河口から二俣村に至る実測量・駒場村以下21箇所の測量標建設・自宅に水利学校を開き、治水と利水の教育を行う。を実施した。後年の天竜川における治水計画の基礎となったと。『名善翁胸像』。大正11年に金杯を賜った時の絵画であろうか?様々な栄典・授章・授賞を頂いたと。位階1888年(明治21年)3月31日 - 従五位1914年(大正3年)10月8日 - 正五位勲章等1888年(明治21年)6月9日 - 金製黄綬褒章1902年(明治35年)2月22日 - 勲六等瑞宝章1915年(大正4年)11月10日 - 勲四等瑞宝章1923年(大正12年)1月14日 - 紺綬褒章明治天皇、昭憲皇太后に拝謁。明治10年、昭憲皇太后に拝謁し歌を賜ったと。昭憲皇太后の紹介文も。明治11年に明治天皇に拝謁し画を賜ったと。大正11年、更生保護事業の功で金杯を賜る。明善の事業経営の基本方針は1.身を修め家を斉えて後、始めて報効の道は開かれる。2.事業には必ず資本を必要とする。この資本は質素倹約を基調として求むべきものである そしてその事業が大きくなるに従ってしの資本は共同出資方式にならねばならぬ。3.事業の発展進歩はその事業に携わる人々にある。そしてこの人物の育成は教育に 俟たねばならぬ。明善は、「金は値打ちのない場所(町)で儲けて、値打ちのある所(田舎)で遣え」という金の活用法を実践した事業家でもある。名善から5代目の方が丁寧に説明してくれたのであった。歴史を感じさせる、天井、壁、照明であった。別屋には懐かしい井戸の姿も。30分ほどの慌ただしい滞在であったが『金原明善生家』を後にする。『金原明善生家』の角にはこれも歴史を感じさせる大きな『石造りの蔵』が。金原明善翁は安間町に住みながら、掛塚湊を出入りする廻船を持っていた。そんな船が伊豆から運んで来た伊豆石で造られた蔵が、金原明善翁生家の横手に残っていた。腰壁をなまこ壁で飾った漆喰土蔵などに比べ、特に飾り気がないように見える石蔵だが、窓の上にはアーチ状に石が積まれていた。そして、アーチの中央にはキーストーン(要石)が嵌め込まれていたのであった。小路の奥にあったのが『普伝院』。更に旧東海道を進む。ここは浜松市東区安新町。この道が『姫街道』の安間起点の場所。写真の左右方向が旧東海道で、奥方向が旧本坂通り。『本坂通(姫街道)安間起点』「この地点は本坂通(姫街道)の起点であり、もと「□□(従是)鳳来寺」と記された道標があり、本坂通(姫街道)が鳳来寺道でもあったことを示している。この道標は、現在は百五十メートル西にある天竜公民館の敷地に移されている。この起点の西には、江戸から六十四番目の東海道 安間一里塚 が東海道の両脇にあった。この一里塚 は本坂通(姫街道)の一里塚も兼ねていたが、現存しない。「東海道宿村大概帳」には、安間新田地内 壱里塚 左右之塚共木立榎」と榎が植えられていたことが記されている。」県道312号線と合流地点手前、『安間一里塚』碑が右手前方に。『安間一里塚』江戸日本橋から64里(約251km)、京都三条大橋からは54番目(約262km七里の渡しを27.5kmとして)にあたる安間一里塚跡。両塚とも現存していなかった。そして旧東海道(県道314号線)は県道312号線と合流。合流地点には『旧東海道』と書かれた木柱が。合流地点を振り返る。旧東海道の安間川(あんまがわ)に架かる『柏木橋』を渡る。『安間川』下流側。上流側には国道1号線の高架橋が。浜松市東区薬師町の旧東海道を進む。前方の国道1号線(浜松バイパス)下を潜る。所々に松並木が姿を現す。『東海道の松並木』「旧萱場村から植松村まで東海道筋のうち町家が並ぶ場所以外には、松並木が整備された。江戸時代を通じて、沿線の村々によって維持されていた。更に進行方向左手のみに松並木が続く。『立場跡』。「宿場と宿場の間に設置された休憩所、旅人や駕籠かき、馬子が一休みした。多くの場合茶屋があって土地の名物を販売していた。ここは、見付宿と浜松宿の間に置かれた。藤棚があって旅人を楽しませたと伝わる」。根本近くで大きく横に這っている松の木を振り返る。                              ​その7​  に戻る。                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.15 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その7:石垣清一郎 生家~松林寺 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​旧東海道・県道314号線の東区中野町を西に向かって進む。『石垣清一郎 生家』案内板が左手に。「明治18年中野町に生まれた清一郎は与謝野晶子が主宰する新詩社「明星」に参加した浪漫派歌人で、「秋の風 都へ帰る学友の 待合室のトランクに吹く」の叙情歌で知られる。昭和2年に県会議員となり、昭和21年より中野町村村長を務めた。清廉にして豪快、篤実な村長として人々に親しまれた。嵐山光三郎は昭和17年、中野町の石垣家に生まれ、清一郎より文学の薫陶を受けて少年時代を過ごした。嵐山の作品には天龍川や清一郎がしばしば登場する。中野町は嵐山のワンダーランドなのである。         嵐山光三郎 記」嵐山光三郎氏はテレビ・『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ)に編集長としてレギュラー出演した事を想い出したのであった。現在は石垣内科医院になっている模様。石垣内科医院の前の家も立派な門が。邸宅の角にあった石造りの庭。その横には大きな駐車場が。しばらく歩くと右手の路地入口にあったのが『軽便鉄道軌道跡』。軽便鉄道は、建設費・維持費の抑制のため低規格で建設されたと。軽量なレールが使用され、地形的制約の克服に急曲線・急勾配が用いられ、軌間も狭軌が採用されることが多い。このため、運行時は最高速度が低く輸送力も小さく、軌間が違う場合は積み替え・乗り換えの不便が生じる。産業の未成熟で限定的な輸送力しか必要としない地域に建設される事例が多い日本における軽便鉄道は、法規的には「軽便鉄道法」に基づいて建設された鉄道を指すが、一般的には国鉄線や軌道法に基づいた軌道線をふくめて、軌間1067mm(3フィート6インチ)未満の営業鉄軌道を軽便鉄道とする。広義には軌間1067mm未満の森林鉄道・殖民軌道・鉱山鉄道など、鉄道法規の規定によらない低規格の鉄道も含まれる。「軽便鉄道は明治42年から、浜松~中野町の11駅間を走っていました。馬込川沿いの木戸から東海道の南側を走り、この地点で道を北側に横切り、道沿いの家屋の裏側を通って終点(今の中ノ町自治会館)へ着きました。「けいべん」と親しまれたこの列車は、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで、客車一輛を引いて家並の軒先すれすれを、のんびり走っていました。 昭和3年以降は軌道自動車(ガソリンカー)に変わり、昭和12年に廃線となるまで、沿線住民の足として愛されました。」『馬込川を渡る軽便鉄道』の往時の写真。軽便鉄道の線路が在った場所は、小さな狭い路地に変わっていた。そして右手に、白塀に囲まれた大きな寺院が姿を表した。『松林寺』の文字が瓦屋根のある白壁の上に。『奥山大権現』と刻まれた大きな石灯籠。奥山方広寺の鎮守の神様が「奥山半僧坊大権現」。この跡訪ねた境内には『​半僧坊堂​👈リンク』があったのです。『松林寺』『松井禅寺』と刻まれた寺号標。鶴翁山松林寺は奥山方広寺の開山である無文元選禅師(後醍醐天皇の息子)が天竜川に近いこの地に足を運んだ折に、草庵を建てて禅師を迎えたとされ、その草庵がやがて松林寺になったといわれている臨済宗方広寺派の禅刹である。寺は江戸時代の元禄年間(1688〜1704年)と享保年間(1716〜1736年)の2度火災に遭い伽藍とともに古記録、古文書類が焼失したため正確な寺史は明らかではないが、歴代の徳川家将軍から朱印を受けていたということである。ご本尊は地蔵菩薩で、この他、薬師如来が祀られており、「寅薬師」として地域の人々の厚い信仰を受けている。ご利益は諸病全快である。また、境内にある弁財天に手をあわせると商売繁盛、習い事の上達にご利益があるそうだ。しかし何故、『松林禅寺』ではなく『松井禅寺』と刻まれているのであろうかとこの時は思ったのであったが、調べてみると、『井』に見える文字は『林』の下図の如き草書文字であり一部の斜めの黒(影?)が見えていなかったようだ。「松林禅寺臨済宗方廣寺派に属する名刹で、江戸時代には中ノ町村に属していた。境内の薬師堂は、徳川家光が浜松城主に命じて建立させたものと伝えられている。この寺は、元禄、享保の二度にわたって炎上しているが、薬師堂は焼失をまぬがれて現在に至っているといわれている。また、境内には奥山大権現や、「航空兵顕彰碑」なども所在する。」『山門』に向かって歩く。参道の両側には枯山水の景色が見事に。山門の床には、かわいらしいお地蔵様が。『手水舎』。『本堂』山 号■鶴翁山寺 号■松林寺住 所■静岡県浜松市東区中野町331宗 派■臨済宗本 尊■薬師如来札 所■遠江四十九薬師霊場第8番札所本堂正面。本堂内部。禅宗寺院の坐禅中に用いられる鐘が。しかしどの様に使われるのか調べてみました。「除夜の鐘とかでイメージする大きな鐘とは違い、こちらは小さい鐘です。坐禅では、この鐘を三回たたく止静鐘(しじょうしょう)、二回たたく経行鐘(きんひんしょう)、一回たたく抽解鐘(ちゅうかいしょう)と放禅鐘(ほうぜんしょう)という四種類の意味があるのだと。・止静鐘(しじょうしょう) :坐禅のはじまりの合図、止静鐘が鳴ったら、基本的には               坐禅堂の出入りはしてはいけません・経行鐘(きんひんしょう) :坐禅中に鐘が二回なったら、経行を始める合図・抽解鐘(ちゅうかいしょう):坐禅と坐禅の間に坐禅堂を出て、少し休憩することを意味・放禅鐘(ほうぜんしょう) :坐禅終了の合図とのこと。坐禅堂は三黙道場の一つ、つまりしゃべってはいけません。言葉を使わない代わりに、このような鳴らしもので伝える」のだと。詳細は『​坐禅中になる木版と鐘はどうして鳴らすの?​』👈リンクを参照下さい。薬師堂前の枯山水の波心庭(はしんのにわ)。薬師堂前の境内。『薬師堂(医王堂)』。薬師如来を祀る薬師堂は、徳川家光の命で建立された。代々の将軍自ら信仰し、御朱印を授け遠州一円の住民の安全と無病息災を祈願した。元禄時代の建築であり、屋根には雌雄の鬼の顔をした瓦が乗せられ四方を凝視している。徳川家康の寅年にちなんで寅薬師とも言われ、寅年に御開帳する。ご本尊の地蔵菩薩は木造で、行基の作と伝えられている。扁額には『医王堂』と。「薬師堂(医王堂)ご本尊は薬師瑠璃光如来 その両脇には日光菩薩、月光菩薩 十二神将が祀られており一千余年前の名僧行基菩薩の御作といわれ心身の健康の守護のみ仏であり万病即快の現世利益の如来さまです。徳川三代将軍家光公は時の浜松代官に命じて別堂(現在の薬師堂)を建立させ、代々の将軍自ら信仰し御朱印(ふち米・お守料)を授け遠州一円の住民の家内安全無病息災を祈願なさしめられた。」戸時代に2回の火災に遭っているが薬師堂だけは焼失をまぬがれているのだと。『庫裏』であろうか?白塀の蔵。再び薬師堂前の波心庭を。『六地蔵』。『七重石塔』。『墓地』。『庚申堂 十王堂』。『合祀 庚申堂 十王堂』「庚申様昔村人の願いにより祖順和尚により建立(271年前)され病魔悪鬼を除き五穀豊穣を願う神とされている十王像閻魔様を中心として冥界にある亡者の罪業を裁断する十人の主であって当山十三世乾堂和尚(143年前)により発願建立一般には木造が多いが当山は石像であり稀に見るあらたかな十王様である。」境内の庭には大きな池があり、大きな鯉が。『出世弁財天』。「七福神の一神。女子の福の神として音楽を司る女神。商売や芸能、技術の上達等、利益があるといわれています。」『百度石』。赤い頭巾、涎掛けの地蔵尊。道路に近い境内には日露戦役忠魂之碑、日独戦役記念碑、大東亜戦役忠魂之碑等々多くの戦役忠魂の石碑が並んでいた。その奥に在った『半僧坊堂』。「当山の鎮守様であり、方広寺の開山無文元選禅師が中国から帰国するとき海がひどく荒れ無文元選禅師の乗った船を守護された神です。住民の厄難消除、海上安全、商売繁盛、所願成就の権現として霊験あらたかです。」再び『奥山大権現』の石灯籠。​​                              ​その6​  に戻る。                  ・・・​つづく​・・・​​​​ 2019.06.14 コメント(0)
  • 二宮町・等覚院から中井町・厳島湿生公園へ 小田原城を後にし、二宮町の旧東海道を走りながら、以前も訪ねた寺『等覚院』を訪ねた。所在地: 二宮町山西793この写真は、前回訪れた時の写真。『本堂』。山号、梅沢山東光寺。別名、藤巻寺ともいわれる。宗派は古義真言宗。小田原市国府津町宝金剛寺の末寺。本尊、不動明王および両脇侍像。境内の『六地蔵』。『鐘楼』。『歴代住職の墓』。『三猿』が刻まれた墓石。等覚院は別名、藤巻寺ともいわれ、藤の花が人気の寺。この日は既に花は完全に終わっていたが、同行の旅友Sさんは、4/29(月)に藤の花を見にこの寺を訪ねていたのであった。その時のSさんがブログにアップしためずらしい白い藤の写真。そして境内のアジサイ(紫陽花)の花を此処でも楽しんだのです。八重咲きのガクアジサイ。こちらも八重のガクアジサイ。緑色のアジサイ。そして次に訪ねたのが、中井町にある『厳島湿生公園』。ここ厳島湿生公園は県下でも稀な清水が出ている湿生地を復元し保全することを目的に整備された公園。湧出量は一日およそ2600トンにも及ぶと。駐車場にあった案内板。厳島湿生公園は、湧き水が作り出した県下でも数少ない湿地を保全しており、相模湾に注ぐ葛川の源流ともなっています。湿地には、ホタル、カワセミ、ホトケドジョウなど、水辺に集まる希少な生き物が生息しており、園内を巡る木道や散策路からは、四季折々の草花など楽しむことができます。公園中央の厳島神社は、古くから地域の方々に「弁天様」と親しまれており、弁天様やホタルにまつわる民話が今も残されています。『厳島湿生公園案内図』。『花マップ』パンフレット。『厳島湿生公園 花マップ』。湿生地を巡る木道400m・休憩広場・芝生広場・東屋・トイレなどが整備されていた。アブラハヤ、シマドジョウ、ホトケドジョウ、シュレーゲルアオガエルなどの希少な生き物が確認されていると。池の上には木道がきちんと整備されていた。木橋の前方に「弁天さん」として地域の方々に親しまれている『厳島神社』の朱の鳥居が。扁額『厳島神社』。『拝殿』。「厳島神社(いつくしまじんじゃ)この神社は、文化4年(1807年)に建てられ天保11年(1840年)、安政4年(1857年)及び昭和62年(1987年)に改築された。江戸時代は「弁天様」と呼ばれたが、明治2年(1869年)厳島神社と改名された。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、祭日は4月16日であったが、現在は、蓑笠神社の祭日と同じ日に行っている。また、周囲は清水が豊富に湧き出ていて、蛍やシマドジョウなどの清く澄んだ水しかいない小動物が、今でも生息する湿原である。」 『私たち、住み替えます 成長とともに住かを変える公園の水棲動物たち』「この公園には大きくなるにつれて、住む場所を変えてゆく水棲動物がいます。ホタルやトンボの幼虫は水中で生活するので、水棲昆虫と呼ばれています。ホタルの幼虫はカワニナを、トンボの幼虫ヤゴはミジンコや蚊の幼虫、小魚などをエサとしています。彼らは、脱皮を繰り返して成長します。両方とも成虫になると空を飛びます。カエルはオタマジャクシのときは水中で生活しますが、成長して尾がなくなり四本足となって水中や陸上で生活するので、両生類と呼ばれます。」睡蓮が群生する池、しかし花の姿はまだ無かった。『中井町 厳島湿生公園 周辺あんない』。このユニークな石の彫刻は、中井町民の彫刻家・高田 大(たかだ・だい)さんの作品。タイトルは「水の妖精」。ちなみに、ここは湧き水が作り出した県下でも数少ない湿地を保全している公園で相模湾に注ぐ葛川の源流ともなっていると。池の中には、野鳥の止まり木が置かれていた。ここに止り羽を休めたり、池の魚を狙うカワセミ(翡翠)等の野鳥を、『鳥撮り』が大きなカメラを3脚に乗せてひたすら待つのであろう公園内に掲示されていた、止まり木のカワセミ(翡翠)の写真。5月にはゲンジボタル、6〜7月にはヘイケボタルの観賞を楽しむことができると。木製のベンチに座り一休み。二宮で合流された元同僚・先輩のOさんが、「近くの食品館あおば 中井町店」で寿司弁当とビールを調達して来てくれ、これを3人で楽しんだのであった。我々、車を運転しない二人は缶ビール、運転する旅友Sさんはノンアルコールビールを楽しみながら寿司弁当を平らげたのであった。Oさん、ご馳走になりました!!近くにあったキンシバイ(金糸梅)の黄色い花。「キアゲハ」の幼虫を発見。「トカゲ」も。ピンボケになりましたがこの透明な羽のトンボの名は?ルリイトトンボだったのでしょうか?数年前に別の場所で撮ったルリイトトンボの写真を紹介します。そして、ネット情報によると、毎年、この厳島湿性公園では『​竹灯篭の夕べ​👈リンク』が開催されていると。2019年の竹灯篭の夕べは5月25日(土)に開催されたとのこと。  【https://www.town.nakai.kanagawa.jp/forms/info/info.aspx?info_id=4148】より竹林整備によって出た竹を「灯篭」にして厳島湿生公園に並べ灯りをともし、その幽玄な雰囲気を楽しむイベントで、竹林再生事業の一環として平成18年度から始まり今年で14回目の開催。会場内は、灯篭の火の揺らめき、水面に映る景色などが幻想的な雰囲気を醸し出し、来場者を魅了したと。   【https://www.town.nakai.kanagawa.jp/forms/info/info.aspx?info_id=4148】よりそして帰路は、明治末から昭和初期まで稼動していた湘南軌道(しょうなんきどう)の線路跡に出来た道路を進む。秦野で産出されていた葉タバコを東海道線の二宮まで輸送することを主目的として建設され、大正期には賑わいを見せたが、1927年(昭和2年)に小田原急行鉄道(現在の小田急小田原線)が開通すると衰退し、旅客営業休止、路線休止を経て1937年(昭和12年)に廃止されたと。通称「けいべん」は、明治39年(1906年)に湘南馬車鉄道株式会社が吾妻村(現在二宮町二宮)~井ノ口村(現在中井町井ノ口)~秦野町(現在秦野市本町3丁目)間の道路9.6㎞に幅二尺五寸(762mm)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まりと。下図の赤い点線部分が軽便鉄道・湘南軌道の線路が通っていた場所。湘南軌道の秦野駅のあった場所は、専売公社農場(現ジャスコ秦野店)附近で、現在の小田急秦野駅からは離れていたとのこと。葛川(くずかわ)沿いを二宮駅に向かって南下。そして二宮駅まで路線距離は最終的に10.0kmであったと。『湘南軌道』の歴史をウィキペディアより。・1906年(明治39年)8月1日発起人を集め湘南馬車鉄道として秦野 - 二宮間開業 (9.0km) 開業当初は馬車鉄道であった。当時の発起人は秦野市、二宮町、中井町など沿線の有力者を もって行われた。なお、発起人に名を連ねた人物には国会議員の伊達時や慶應義塾出身の 山口(旧姓高橋)喜十郎など福沢諭吉の知己を直接得ている人物が存在する。 また、伊達時および山口喜十郎は伊勢原市に存在した自由民権運動の団体「湘南社」に 深くかかわっていた。・1913年(大正2年) 2月1日 利用者増加に伴い蒸気機関車に変更 2月24日 湘南軽便鉄道に改称・1918年(大正7年) 経営難により一時休止、その後経営移管され湘南軌道となる・1923年(大正12年)9月1日 関東大震災により被災・1924年(大正13年)3月 秦野駅(初代)を台町駅に改称、 秦野(2代目) - 台町間開業 (1.0km)、全通・1927年(昭和2年)4月1日 小田原急行鉄道開通・1929年(昭和4年)8月14日 乗合自動車運行開始[5][6]・1933年(昭和8年) 旅客営業を休止、貨物営業のみとなる・1935年(昭和10年)10月9日 秦野 - 二宮間全線営業休止・1937年(昭和12年)8月25日 秦野 - 二宮間全線廃止 (-10.0km)『当時の駅・敷設・接続路線』をウィキペディアより。・路線データ (廃止時点のもの) 路線距離(営業キロ):10.0km  軌間:762mm・駅数:8駅(起終点駅含む) 複線区間:なし(全線単線)  電化区間:なし(全線非電化)・駅一覧 秦野駅※ - 台町駅 - 大竹駅 - 上井ノ口駅 - 下井ノ口駅 - 一色駅 - 中里駅 - 二宮駅 ※湘南軌道の秦野駅のあった場所は、専売公社農場(現ジャスコ秦野店)附近で、 現在の小田急秦野駅からは離れている。以下の古い写真は『​湘南軌道​👈リンク』からのものを利用させていただきました。『湘南軌道 二宮駅』の当時の写真。創業当初は、鉄製のレールの上を走る客車を馬に引かせる馬車鉄道であったと。『省線二宮駅構内を進行する湘南軌道の蒸気機関車。』1913年(大正2年)2月1日 利用者増加に伴い蒸気機関車に変更されたと。大正13年(1924)頃の古写真「湘南軌道株式会社・二宮本社屋」『2号機関車』。そして『下井ノ口停留所跡』。湘南軌道下井ノ口停留所付近は若干昔の名残で商店等があったが。写真を撮るOさんは二宮に50年以上お住まいだが、この湘南軌道についてはご存じなかったのであった。『一色停留所跡』。一色駅(いしきえき)は、現在の神奈川県中郡二宮町一色に在った駅。『中里停留所跡』。中里駅(なかざとえき)は、現在の神奈川県中郡二宮町中里にかつて存在した湘南軌道の駅。今まで、この湘南軌道の存在については、全く知らなかった私。今回、中井町にあった『厳島湿生公園』を訪れ、その存在を知り、帰路にその路線上に出来た道路を走り、またネットで調べこのブログを書きながら大いに学ぶことが出来たのであった。 2019.06.13 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その6:磐田市・新新天竜川橋~浜松市・東橋跡 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​県道261号線(磐田細江線)の天竜川に架かる『天竜川橋』を磐田市側から見る。この『天竜川橋』には歩道が無いため、更に上流に向かい歩き、国道1号線(浜松バイパス)に架かる『新新天竜川橋』に向かう。『新新天竜川橋』の歩道を歩き、天竜川を渡る。天竜川に架かる橋としては、最下流から6番目の位置にある。国道1号の新天竜川橋付近は近隣の地域でも屈指の渋滞ポイントであり、渋滞が慢性的に発生し、問題となっていた。また、新天竜川橋には歩道(自転車歩行者道)が無かったため、天竜川を横断するためには路側帯を通行するしかなく、非常に危険な状態であった。この2点の解消を主な目的として、新天竜川橋の拡幅工事が1995年(平成7年)に開始された。総事業費は約460億円。1995年(平成7年)より、従来の片側2車線の計4車線道路から片側4車線の計8車線道路への拡幅工事(新天拡幅)を行い、下り専用橋として供用を開始した。橋長は912 m。日本橋から249.2m地点を通過。日本橋から京都・三条大橋までの旧東海道の距離は、いろいろな数字があるが、126里6町1間(495.5km)の数字もあり(​https://350ml.net/labo/tokaido/kyori.html​)495.2/2=249.75kmであり、この先550mが中間点。隣の『天竜川橋』の手前側の磐田市部分は塗装更新済みであるが、浜松市側は未だであり白への変色が目立つのであった。そして橋上で浜松市東区中野町に入る。原付は『流出して下さい』の表示に違和感あり。天竜川に架かる橋の上の表現としては気になったのであった。そして中間地点を通過し『250km』地点に到達。ようやく旧東海道の前半線を制覇し、後半戦に入ったが、しかし未だに静岡県を脱出できないのであった。『新新天竜川橋』をほぼ渡り終わり、道路下にある小さな公園への階段を降りる。『東海道案内板』。『「東海道」江戸と京のどまんなか 浜松市東区中野町マップ』。堤防の下の道を進むと、六所神社、旧東海道 船橋 木橋跡に行けるとの案内が。『天竜川橋』の浜松市側からの入口を見る。そして、中野町マップに従い、堤防の下の砂利道を進む。暫く進むと左手に堤防上の道・県道314号線に上がる階段があり、ここから六所神社の境内裏側に入れたのであった。県道314号線沿いにあった大きな石碑を見上げる。『六所神社(ろくしょじんじゃ)』の境内に入り、鳥居の外にいったん出て六所神社を撮影。『六所神社』社殿。三柱の海神と三柱の航海の守り神の六柱の神様が祭神として祀られている。神社名 六所神社鎮座地 浜松市天竜区春野町領家327御祭神 天兒屋根命 大日靈貴命 譽田別命    中筒男命  大山袛命  武甕槌命御由緒 伝え云ふ 建治二年八月十八日尾張国中野郷より 勧請すと御朱印五石七斗拝領す    境内はもと寺裏にありしを明治七年遷座す その折当地に鎮座せし島津神社と北裏に    遷座せし上下神社を合祀    大正十二年六月二十七日 賀陽宮恒憲王殿下御参拝あり    第六十回伊勢神宮式年遷都に伴ひ 御正殿の古材を使いまして昭和五十年十一月    社殿他皆改築す。そして再び鳥居をくぐり境内の外に出ると、左手の階段横にあったのが『船橋 木橋 跡』。「江戸時代の天竜川には江戸防衛の理由から橋が架けられていませんでした。東海道の蓬莱は、この上流にある「池田の渡し」の渡船で行われていました。明治元年、天皇御東幸の際には、舟を並べ、板を敷いた仮設の舟橋が2日間だけ架けられました。その後同7年には本流の舟橋と(中)州の木橋からなる最初の橋がこの場所に完成し、街道の往来は格段に便利になりました。しかし舟橋は洪水により度々流されたので同9年に完全な木橋に架け替えられました。この「天竜橋」は昭和8年に現在の鉄橋ができるまで使用されました。」往時の『天竜橋』の写真。この後屋敷を訪ねた金原明善が明治11年3月に完成したのが幅3.6m、長さ約1160mの木橋「天竜橋」昭和初期の天竜橋と後方天龍川橋(天竜川文庫所蔵)。堤防上を走る県道314号線からかっての『天竜橋』があった方向の天竜川を見る。川面に面する場所に、何か柱と案内板が写っていたのでネットで調べてみると下の写真の如き『量水標』であったようだ。『量水標』とは川の水位を目で観測するための装置とのこと。『水天宮寄付』と刻まれた石碑。『船橋之碑』『明治大帝玉座跡』碑。中野町六所神社北側天竜川堤防沿いに「玉座迹」と記された碑と「明治大帝御聖蹟」の石柱が建っていた。明治天皇が北陸東海地方の巡幸の中で、明治11年11月1日に天竜川堤防修築のため設立された「治河協力社」の建物内で休憩した。その際、天竜川の治水に尽力した功を賞して金原明善夫妻に拝謁を賜り、紅白縮緬を下賜された。建物は明治25年に焼失したが、明治31年、建物跡前面に「玉座迹」が建碑された。また、明治天皇巡幸の地として「明治大帝御聖蹟」が昭和3年に建てられた。『明治天皇玉座迹の碑』史跡  明治天皇 中野町御休所跡所在地 浜松市東区中野町説明  明治十一年、北陸東海巡幸の際十一月一日、当所でご休憩された。 御座所は金原明善の設立に係る治河協力社の建物内で明善夫妻を御謁見された 当時の建物は明治二十五年十月消失し建物跡の前面に玉座迹の碑を建立した。」『明治天皇玉座迹の碑』前から天竜川下流を見る。遠くに東海道本線の鉄橋が見えた。『天竜川木橋跡』、『舟橋跡』の2本の標柱があった。対岸の豊田町(現磐田市)側に『天竜川橋跡碑』があったが、実際に木橋があった場所がここということになる。『金刀比羅神 水天宮』石碑。水運の安全を守る「金刀比羅神」と暴れ天竜川を恐れての水難除けの「水天宮」の石碑『賀陽宮(かやのみや)殿下参拝祈念』碑。賀陽宮は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子邦憲王が、父宮がかつて称していた宮号を受け継いで、新しく創設した宮家である。六所神社の前のT字路には様々な石碑、案内板が。「六所神社」下にある「旧東海道」説明板。「ここ中野町は、東海道のちょうどまん中であることからその名前がついたと伝えられています。 十返舎一九の東海道中膝栗毛にも、「舟よりあがりて建場の町にいたる。 此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」と記されています。 この辺りは、川越しの旅人や商いをする人、天竜川をなりわりの場とする人々で活気があふれていました。」『中ノ町道路元標』。足元にある標石は「道路元標」と呼ばれ、市町村の起終点を示したもの。 大正九年施行の旧道路法により、各市町村に一箇所の設置が定められた。ここにある「中ノ町道路元標」は中ノ町村の起点を示すもので、 当時の規格に忠実に作らている。 市町村の数と同じ1万2244基が設置されたが、全国に現存するものは1600基ほどと言われ、静岡県内ではおそらく唯一の、たいへん貴重なものであると。『旧東海道』。六所神社を背にして、真っ直ぐ延びる旧東海道を西に向かう。右手空き地に案内板が。『中野町銀行 跡』。「中野町は、江戸時代には東海道筋の川越しの集落として、多くの旅人たちで賑わいました。また、明治から大正時代には、天竜川の船運を利用した木材や鉱石の流通基地として隆盛を極めました。明治15年、この場所で「竜西社」が結成され2年後に「中野町銀行」が誕生した。その後、西遠銀行と合併し、遠州銀行を経て、今の静岡銀行に吸収された。昭和49年まで建物があり、現在は地面に埋もれたレンガに、かすかに当時の面影を見ることができます」同じく右手にに大きな『天竜川橋紀功碑』が。『天竜川橋紀功碑』「天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平の業績を刻んだ石碑である。浅野茂平は、明治元年の明治天皇東行に際して天竜川に舟橋を架けて安全な渡河に功績を残したほか、明治7年には舟橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の活性化に大きく貢献した。その功績は今も語り継がれている。石碑は明治27年に建てられた。」『中町(なかちょう)通り』と書かれた木柱と『伊豆石の蔵』案内板。『伊豆石の蔵』。「この蔵は、明治時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で造られた蔵です。江戸時代より、天竜川流域は船運を利用した交易で、伊豆や江戸と繋がっていました。伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われました。これらの建造物は、掛塚をはじめ天竜川筋のまちや、浜松市内にも数多く残っており、当時の交易や繁栄の名残を今に伝えています。この蔵の壁の石は流れるような縞模様や海を思わせる緑が美しく、数ある伊豆石の蔵の中でも大変秀逸で貴重なものです。」『東橋』と書かれた木柱のある信号のない交差点。『東橋(ひがしばし)』。『東橋跡』「かつてここを流れる小川には、土橋が架かっていました。 中野町村では一番東の橋であり、東海道を往来する旅人は、皆この橋を渡りました。明治後期から、中野町は天竜川の船運による木材の集積地として栄えました。 堤防沿いには19軒の製材所が建ち、ここから東の横町に至る通りには、旅館・芸者置屋・小料理屋・洋食屋・玉突き・カフェーなどの店が軒を連ねていました。この東橋が、中野町繁華街への入り口でもあったわけです」                              ​その5​  に戻る。                   ・・・​​つづく​・・・ 2019.06.13 コメント(0)
  • 小田原城へ(その2) 花菖蒲園を後にし、常盤木門を目指して常盤木橋を渡る。常盤木橋からハナショウブ園を見る。右手に『常盤木門』と刻まれた石碑が。『小田原城 常盤木門』。「小田原城 本丸の正門で、最も大きく堅固に造られていた。常盤木とは常緑樹の意味で、門のそばにあった松になぞらえてこの名がつけられたと言われている。市制30周年事業として、昭和46年(1971)に再建された。」こちらにも案内板が。小田原城は江戸時代だけでも地震や火災で3度大きな被害を受けているのだと。常盤木とは常緑樹の意味とのことで、門の傍らに植えられている松が何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたと。『常盤木門』。江戸期小田原城の中でもっとも堅固な門で、本丸正面に位置します。多門櫓と渡り櫓から構成される枡形構造の門で、上の写真の如く江戸時代初期の古地図にも描かれています。現在の常盤木門は昭和46年に市政30周年を記念して再現された。原型は元禄16(1703)年の大地震で崩壊した後、宝永3(1706)年に再建されたもの。『常盤木門』を潜り本丸跡へ。正面に勇壮な『天守』が。小田原城天守は1階建の小天守、続櫓、3重4階の大天守の3部構成からなっていると。大天守は見た目3重ですが、1重目は2階に別れており、4階建の天守となっている。これは大きな天守を嫌がる幕府に対する配慮だと。天守のみの高さは27.2m天守台石垣高さは11.5m、総高38.7m、本丸広場の海抜は29.7m、合わせて海抜約70m。ちなみに5重天守の設計図と雛形の模型もあるのだと。これは江戸時代の震災後の修復の為に書かれたものらしいですが、幕府への配慮からか結局5重天守は小田原城に造られることはなかったのだと。『本丸跡』案内板。「最初の戦国大名」はいかにして関東を制したか 伊勢宗端(いせそうずい)。伊勢宗端とは北条早雲のこと。室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義があると。『小田原城常盤木門売店』の壁にも北条早雲が。『小田原城常盤木門売店』。天守を背景にした記念撮影のスポットには『令和』の文字が。江戸時代、小田原城の初代城主となった大久保忠世の家紋は上がり藤に大の字・「大久保藤」。我が実家の家紋は大のない『上がり藤』。本丸を後にし、小田原城正面入口に向かって下る。『イヌマキ』の巨木が前方に。『小田原城跡のイヌマキ』。「所在 城内三ー二二樹相 目通り幹囲 四.五メートル   株元周囲  約六メートル    樹高    約二十メートル   枝張り状況 東西二十五メートル         南北十三メートルイヌマキは関東南部以西のの海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られます。この木は、幹回り四・五メートルに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上五メートルのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ蜜に枝を広げて傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。」再び『銅門』まで戻る。『銅門(あかがねもん)』銅門は、小田原城二の丸の表門にあたり、馬屋曲輪から住吉橋を渡り、二の丸主部へと通じる大手筋に設けられた桝形門です。銅門の北側には藩主の居館である二の丸御屋形がありました。江戸時代前期に稲葉正勝が城主となった時期に行われた普請の中で銅門も築かれたものと考えられています。銅門という名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来します。『銅門』の「渡櫓門(わたりやぐらもん)』を潜ると見えてきたのが『内仕切門(うちじきりもん)』。『内仕切門(うちじきりもん)』を潜り『住吉橋』を渡る。木製の『住吉橋』そして『内仕切門(うちじきりもん)』を振り返る。正面に見えるのが『観光案内所』。『馬家曲輪』。城址公園の南側に位置する馬屋曲輪は、三の丸から二の丸に入る大手筋(正式な登城ルート)の重要な曲輪です。三の丸からは馬出門、お茶壷曲輪からは中仕切門から馬屋曲輪へ入り銅門へと続きます。江戸時代では登城者に対しての番所として機能していたようです。馬屋曲輪には大腰掛や馬屋、二重隅櫓などの建物があり、曲輪(お城の区切られた敷地)の外周は土塀と石垣で覆われていました。又内側は馬出門から大腰掛、馬屋、中仕切門と板塀が巡らされていました。『内冠木門(うちかぶきもん)』。『馬出門(うまだしもん)』『馬出門土橋』を渡る。『馬出門土橋』から『馬出門』を振り返る。そして駐車場に戻り、車で『小峯御鐘ノ台大堀切』に向かう。小峯御鐘ノ台大堀切は小田原城本丸から近い順に東堀、中堀、西堀の3本の堀が並び、これまでは東堀と中堀が散策可能でした。大堀切西堀では雄大な空堀と土塁が残り、小田原城の最も外側に展開する堀や土塁からなる総構と西堀が接続している様子や、小田原城の広大さを観察することができます。東堀の堀底は遊歩道として公開されていたのでここを歩く。『小峯御鐘ノ台大堀切東堀』大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀であると。『小田原を守った総構と三本の堀切』。小峯御鐘ノ台大堀切は、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断して構築されたものです。この遺構は、慰霊塔側にある東堀、現在は道路になっている中堀、西側にある西堀の三本の空堀で構成されています。当時の様子が最も良く残っている東堀は幅が約20 ~ 30m、深さは土塁の頂上から約12m あり、堀の法面は50 度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものといえます。巨大な大堀切。大堀切をふたり占め。そして日蓮宗・蓮船寺を訪ねた。『本堂』。小田原七福神の『大黒様』。寺の前の広場(発掘跡か?)にいたのはは烏骨鶏(ウコッケイ)?そして、純白のテマリ咲きアジサイが。 2019.06.12 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その5:池田橋の跡碑~天龍川渡船場跡碑 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​『池田の渡し歴史風景館』を後にし、天竜川に向かって歩くと道路角にあったのが『池田橋の跡』碑。明治16年(1883年〉、幅2.72m、長さ765mの当時日本初の有料木橋が掛けられた。現在は「池田橋跡の碑」が建てられていた。昭和8年に取り壊され、現在は対岸に渡るには下流の天竜川橋と新天竜川橋を使っている。池田の渡し場は上中下の3箇所があり、この写真の付近は「上の渡し」であった。普通は下流の「下の渡し・中の渡し」を使い、増水時に「上の渡し」を利用したのだと。池田は、古東海道時代は物流も盛んで、宿場として栄えていた。江戸時代は、渡し場として栄え、茶屋や宿屋もあった。かつての天竜川は暴れ川で、平安時代は池田の東側を流れていたと。15世紀末に池田の西側に流れが変わり、その後も流路を変え続けたのだと。堤防下にあったのが『家康の天竜池田渡船場の許可証』が。「遠州天竜池田渡船之事 一、河上・河下雖為何之知行、地形於可燃地船可通用之事一、棟別参拾五間寺方共仁、此屋敷分扶持与出置、井拾二座二付役等竹木不可見伐之事一、於分国中、夏秋両度升を入、致勧進之由申上之間、可為先規事右条々、有河原昼夜令奉公之条、停止諸役、永為不入免許畢、然者彼拾人之者共、為雑色分上者、聊不可有非分、於背此旨輩者、急度申出之上、可加下知者也、仍如件、    天正元 癸酉年      十一月十一日  家康  花押          船守中このお墨付きを要約すると、一、天竜川川筋で誰の領地にかかわらず、適当な場所で渡船を行うこと。一、そのかわり渡船方三十五軒と行興寺の家屋敷の税を免除し、渡船差配人である「十二座」の  者の役を保証してその屋敷の竹木を保護する。一、遠江国内で今までどおりに年二回渡船運営等に必要な費用を集めることを許す。右の条々は昼夜渡船に携わることに対する報奨であり、さらにいろいろな役目を免除して長期にわたって干渉しない。船守の十人に対して、乱暴な行為を禁止する。このことに背いて訴えられた者は、処罰する。 御墨付きは、今から約430年前(1573年)、徳川家康が池田の渡船関係者に与えた天竜川渡船権の許可証です。武田軍が攻めてきた時、常に家康側の味方となって協力を惜しまなかったことから、与えられたとされています。これにより、天竜川の渡船権は、池田の渡船にかかわる人だけが持つようになりました。」堤防上の道路・県道343号線(上野部豊田竜洋線)に上がり天竜川の上流側を見る。東名高速道路をズームで。下流側には国道1号線・浜松バイパスそしてその奥に県道261号線。堤防の下部の遊歩道には写真入り案内プレートが。『天竜川を上り下りした帆かけ舟』。「江戸後期から明治に入り、渡船がなくなった後、帆掛け船等により、天衆側上流部へ生活物資(米など)を送り、上流部からは木材・鉱石(銅など)を陸揚げし、人車軌道(トロッコ)にて中泉駅(現磐田駅)まで運搬するための中継点として活躍しました。しかし、昭和になり、道路の整備やトラック運送が発達し、川にはダムが出来て、今までの船で物資を輸送することもなくなり、それと共に見かけなくなりました。」『有料だった池田橋』。「時代が江戸から明治へと変わり世の中が変化したように、天竜川の渡船も橋へと変わりました。旧豊田町でも天竜橋・池田橋が明治初期にでき、このうち池田橋はこの付近にかけられました。この橋は木橋で『橋銭』をとる有料橋であり、大人三銭、小人二銭でした。昭和八年に旧国道の天竜川鉄橋が完成したことにより、廃止されました。」『江戸時代の天竜池田渡船』。「江戸時代に入ると、大きな川には政治的な理由等により、橋をかけませんでした。渡船賃は、武士等の特別な人を除き一人当たり十二文かかったそうです。天竜川は、渡船による川越でしたが、水位が七尺(約2.1m)を超えると川留になり、その間旅人で旅籠屋がにぎわったそうです。」『旧豊田町指定文化財 遠州一言村十景之図「天竜夕照」』。なんと刻まれていたのであろうか?『常夜燈』であろうか?県道343号線下に在った常夜燈?祠の中を覗いてみれば良かったのだが・・・。十一番、十二番、十三番と刻まれた石仏像。『池田の渡しの秋葉山常夜燈』西法寺公園の藤棚も巨大。『遍照山西法寺跡』。「ここには『遍照山西法寺(へんしょうざんさいほうじ)』という寺院がありました。」西法寺は、今から約770年前の鎌倉時代の貞永年間(1232年)に創立された真言寺院で、本寺は高野山普門院、本尊は不動明王でした。真言宗は平安時代に空海(弘法大師)によって開かれたもので、遠州では袋井市の法多山、油山寺、磐田市の医王寺、浜北市の岩水寺、浜松市の鴨江寺、龍禅寺。三ヶ日町の摩訶耶寺などがあり、いずれも古い時代より続く大きな寺院です。豊田町の寺院も多くは真言宗により創立されました。しかし、鎌倉時代に広がった新仏教は、奈良・平安時代以来の貴族中心の信仰から庶民信仰の仏教へと大きく変化し、その流れの中で、町内寺院もほとんどが曹洞宗と時宗に改宗されました。江戸時代に書かれた『遠淡海地志(とおとうみちし)』によれば、この時代の町内四二カ寺のうち、曹洞宗三九、時宗二で、真言宗は西法寺の一カ寺のみとなっています。おそらく、西法寺は、鎌倉時代に広がった庶民仏教とは一線を画し、武士層など比較的経済的に恵まれた人々の信仰を集めていた寺院だったのではないでしょうか、現在では、お寺は浜松市に移り、五戸の檀家衆のうち豊田町内三戸の檀家衆によって法灯が守られています。」豊田熊野記念公園、ここにも大きな藤棚が。『熊野伝統芸能館』に立ち寄る。紫そして白の藤棚や能の写真が。この絵画は??『伊藤深水画 仕舞熊野』。『能装束』池田宿の長者で、平宗盛に寵愛され都に伴っていた。 平家物語「海道下り」本文中ではこのようなエピソードが述べられている。宗盛に寵愛された熊野は、故郷の母が病気のため宗盛に暇を請うが許されず、かえって花見の伴を言いつけられる。 酒宴が始まっても心の浮かぬ熊野は舞を舞うが、にわかに雨が降ってきて花を散らすのを見て、 この歌『いかにせん都の花も惜しけれど馴れし東の花や散るらん』 (都の花も惜しまれますけれど、こうしているうちにも、 馴れ親しんだ東の花が散るのではないでしょうか) と和歌をよむ。 これを聞いた宗盛は熊野の心を哀れに思い暇を与えた。このエピソードを典拠につくられたと言われているのが謡曲『熊野(ゆや)』である。『熊野伝統芸能館』前の広場の先に大きな藤棚が拡がっていた。磐田市熊野伝統芸能舘の能舞台。謡曲『熊野』は名高く、藤棚を借景とした屋外型の能楽堂。舞台の老松・若竹は、皇太子殿下御成婚奉祝記念能の際に、老松・若竹の描画を担当された谷勝郎氏の制作で、揚幕は東京の観世能楽堂と同じ様式のもの。藤棚には一輪だけ花が。『西法寺大子堂』、花の時期にはこの藤棚の下には、観光客がごった返していたのであろう。開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。紫の藤との二色を楽しめるようです。        【http://shizuyashizu.jugem.jp/?cid=19】より開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。別の場所からも。            【http://shizuyashizu.jugem.jp/?cid=19】より『誓渡院』に立ち寄る。『曹洞宗 済縁山』。『誓渡院』。『本堂』。済縁山誓渡院は永正元年(1504 年〉の開創で、当時lま誓渡庵と号した。曹洞宗である本尊は地蔵菩薩。本堂には護法拈茎帝釈天、池田渡船船玉大明神を奉っている。新四国八十八ヵ所第五番札所である。境内の『安養地蔵菩薩』。『粒見堂観音』前には火の見櫓が。そしてこの脇が『天白神社』入口。昔懐かしい「火の見櫓」『粒見堂観音』永享6年(1434年)妙法寺二代目僧侶が天竜川に聖観観音の尊像が浮かぶ夢を見て、その通り尊像が発見されたという。当時の村人らが穀物(粒)の喜捨を乞い「粒見堂」を建立した。」『粒見堂観音』堂内部。天白神社脇入口。『石鳥居』。扁額『天白神社』。『手水舎』。『社殿』。猿田彦命を御祭神とする、池田村の鎮守で、祭りの際、天竜川を境に東西に別れ行われる喧嘩角力が毎年行われていると。神社の起源は、奈良時代の女帝・孝謙天皇の頃。鎮守は猿田彦命。江戸時代には池田宿大明神とも呼ばれていた。マンホール蓋には藤の花が。天竜川堤防の下に石碑が。ここが『中の渡船場』だったようだ。『天龍川渡船場跡碑』『板塀の家』。『常夜燈』。                              ​その4​  に戻る。                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.12 コメント(0)
  • 小田原城へ(その1) 熱海からの帰路も往路と同じく国道135号線を利用する。そして小田原城の横にある『報徳二宮神社』前の駐車場に車を駐め小田原城の散策開始。『小田原城 園内マップ』南入口から城内を目指す。小田原城址公園の藤棚前に位置する二の丸南堀には蓮がギッシリと。まだ蓮の花はなかったが、南堀いっぱいに群生する蓮は、これから徐々に花をつけ8月中旬まで楽しめるという。ここの蓮の花は『オオガハス』であると。城址公園の『御感の藤(ぎょかんのふじ)』。もとは小田原城二の丸御殿に鉢植えされていたフジ(藤)だと。明治維新後、市内の森元氏の手に渡り、次いで市内の西村氏の手に渡っていましたが、大正11年に現在地へ移植されました。花房が1メートルにもなる見事なフジであると。「御感(ぎょかん)の藤  樹名 ノダフジ(マメ科)     昭和三十二年三月三十日 小田原市天然記念物指定     昭和五十九年十二月   かながわの名木百選選定この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、明治維新後、市内板橋の森元氏の手に渡り、明治十六年に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられています。大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから「御感の藤」と呼ばれるようになりました。大正十一年三月、小田原保勝会の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませています。樹齢は約二〇〇年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木ですが、五月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観です。                     小田原市教育委員会」今年の藤の花の写真。    【https://www.jalan.net/kankou/spt_14206ac2100128571/】より「御茶壺曲輪御茶壺曲輪は、三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利にするための「捨曲輪」として用いられていました。元禄期(1688~1704)には、徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壺道中」の際に、往路で空茶壺を納める「御茶壺蔵」が設けられていたことから、御茶壺曲輪と呼ばれるようになったとされます。」アジサイと南堀の蓮の群生。青く色を変え始めていた。『小田原城址公園銅門広場』からの『銅門(あかねもん)』。杉﨑宗雲Jrの作品「コマンド」??。何を表現しているのであろうか?巨大な『銅門(あかねもん)』。『小田原城址公園銅門広場』には幟の如きものに描かれた抽象画が地面に展示されていた。金沢で見た加賀友禅流しの如き光景であった。『伝 銅門礎石』。「伝 銅門礎石この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。使用状況は、復元した銅門をご覧いただくとわかりますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。手前の石は約一・六t、奥の石は約一・八tある立派なものです。」『銅門 土塀模型』。何層にも塗り重ねられていることが理解できたのであった。「銅門 土塀模型この土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち制作したものです。使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめる重要な役割を果たしました。皆さんに古い建築の工法を分かりやすく伝えるため、小田原市建築協同組合」より寄贈を受けたものです。」そして小田原城を訪ねた目的の『小田原城 あじさい花菖蒲まつり』会場へ。2019年6月1日(土)~16日(日)の期間で開催中。開催期間中、常盤木橋周辺の花菖蒲とあじさいをライトアップも行われている。常盤木門の南側の菖蒲園。ここも満開にはまだ早かったが。アヤメ類の総称としてハナショウブをアヤメと呼ぶことも多く、間違いにはあたらないと。ハナショウブはノハナショウブの園芸種である。6月ごろに花を咲かせる。花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5,000種類あるといわれていると。紫のハナショウブ。白も混じって。背の高さも様々。常盤木門を潜り菖蒲園の北側に。こちらの方が、やや開花は進んでいるようであった。青のハナショウブ。白のハナショウブ。仲良く。菖蒲園の横の斜面は一面のアジサイ園。様々な色を楽しめるのであった。桃、黄のハナショウブはこれからか?周辺のあじさい約2,500株もこれから。青色のハナショウブにも濃淡が。赤い欄干の常盤木橋。最盛期になると約10,000株の花菖蒲が花を開くと。鮮やかな紫と純白のハナショウブ。アジサイも遅れをとるまいと。青のガクアジサイが仲良く。ピンクの八重咲きも。純白のアジサイ。再びハナショウブをカメラで追いかける。紫の領域か。可憐な白のガクアジサイ。ハナショウブの花言葉は「優しい心 あなたを信じる 忍耐 優しさ 諦め 心意気 優雅 情熱 伝言 信頼」。すっとした草姿と、落ち着いた青紫色をした花が古風な雰囲気を演出してくれていたのであった。                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.11 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その4:熊野(ゆや)の長藤~池田の渡し歴史風景館 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​天竜川治水祈念公園を後にし、この日は国道1号線の新天竜川橋を渡ったのであるが、実は前日に国道1号線の北側にある池田地区をこの日の時間節約の為に訪ねていたのであった。古くから池田地区は、渡船場が三つあり天竜川を渡る交通の要となっていた。現在、天竜川の堤防に渡船場跡を示す石碑が建てられていた。周辺には、池田の渡しにゆかりのある「豊田池田の渡し公園」や「池田の渡し歴史風景館」が。歴史風景館には、「池田の渡し」の長い歴史を物語る品々が多数展示されており、徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる朱印状のレプリカなどを見ることが出来たのであった。まず最初に訪ねたのが『熊野の長藤』。『熊野(ゆや)の長藤』前の県道262号線(豊田竜洋線)の道路脇に在った小さな祠に安置された石仏。謡曲「熊野(ゆや)」で有名な熊野御前(ゆやごぜん)の墓がある『行興寺』入口。ここに国と県指定の天然記念物のフジが合わせて6本あるのであった。「記一、当寺は、今より八百年の昔、延久元年の創建にて、謡曲で有名な、熊野(ゆや)御前の旧跡で  あります。一、当寺には、熊野御前の守本尊厄除十一面観世音(恵心僧都御作)、熊野御前とその母、  侍女朝顔の墓墳がそのまま昔を物語っております。一、毎年四月二十九日より五月五日まで熊野御前の例祭をとり行います。一、境内には、その昔、熊野御前が堂側に植えて愛育された藤であると称される紫房五尺以上に  垂るる五百坪に余る藤があり、昭和七年文化庁より「熊野の長藤」として天然記念物に  指定されました。見頃は、年により相違があるが平年四月下旬から5月上旬であります。一、謡曲「熊野」奉納の方には、寺則により謡曲奉納の証印を押印いたします。                                 右 旧跡 熊野寺」『熊野の長フジ』国指定天然記念物 一本県指定天然記念物 五本国指定は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれてニ支幹となっている。根元で約1.8mもある。本堂前の境内にある五本のフジは県指定であるが、国指定に劣らないフジの巨木である。ともに、樹齢は定かでないが老木であることは間違いない。花房が1m以上にも伸びて、紫色の美しい花をつける。一般的には「熊野の長フジ」と呼ばれている。そのいわれは、平安時代の終りごろ、熊野御前が植えたとの伝承がある。熊野御前については謡曲熊野や平家物語にも登場する、親孝行で有名な美女である。」『行興寺』本堂前の見事な藤棚。残念ながら、今年の藤の花は既に終わっていて、花後の手入れも完了していた。県指定天然記念物熊野の長藤(計5本) 指定:昭和47年9月26日指定樹齢:約300年(推定)  樹勢:根廻 2.4m  樹高 2.5m特徴:花房の長さ 最長1.5m、平均90cm    花色 紫そして左に『熊野御前の歌碑』。高さ143㎝、幅57㎝。熊野御前は、平安時代の末期に池田荘の庄司の藤原重徳の娘として生まれた。この歌碑には、平宗盛を想う心と、母を慕う心が詠われている。熊野御前は、平清盛の三男・宗盛に見染められ、京にのぼりお仕えしていた。そんな折、母病いの報が届く。花見の宴で熊野は舞を舞いながら、歌を詠んだ。雨に散る桜に、母の病状を重ねた歌に宗盛は心を痛め、帰郷を許したという。【いかにせむ 都の春もをしけれど なれしあずまの 花や散るらむ】宗盛の死を知った熊野は、尼となり33歳でその生涯を閉じた。開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。   【https://s.webry.info/sp/58094028.at.webry.info/201505/article_1.html】より開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。       【https://s.webry.info/sp/58094028.at.webry.info/201505/article_1.html】生まれ故郷がここ池田である『大橋葉蘭』の句を刻んだ句碑が。高さ173㎝、幅100㎝。大橋葉蘭は、明治35年(1902)に、池田に生まれた。昭和14年(1939)に原田濱人によって俳句結社が主宰され、同人誌「みづうみ」が創刊されるが、そのあとを受けて主宰となる。昭和57年、同誌500号を記念し、句碑が設置されたと。【ひとの手に 綿虫移し いとませり】【汗かいて 昼寝の吐息 業尽きず】【老どちが 浄瑠璃に泣く 夜永かな】本堂脇の『熊野(ゆや)の墓』。開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。       【https://shifu-dsuki.com/shizuokakeniwatashiyuyanonagafuji.html】より。『謡曲「熊野」と行興寺』「近江国池田の宿の長 熊野は、平宗盛(清盛の次男)の寵愛を受け、京都清水の桜見物に出掛けます。熊野は病母から届いた手紙で見舞いに赴きたいと思い、宗盛に暇を乞いましたが、聞き入れられず、やむなく宗盛に同行しました。花の下の酒宴が始まり舞を舞った熊野は、俄の村雨に散る花に寄せて故郷の病母を気遣い【いかにせん 都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん】と和歌を詠んだのを見て宗盛も哀れに思い、暇を与えたのです。熊野はこれも清水観音のご利生と喜んで故郷へ帰って行きました。熊野は藤の花をこよなく愛し、行興寺本堂側に熊野が植えたと伝えられる老木あり「熊野の長フジ」と称せられています。」『荻原井泉水 句碑』。高さ194㎝、幅64㎝。荻原井泉水は、明治17年(1884)に東京都港区に生まれた。本名は、幾太郎(のち藤吉)。俳句機関誌「層雲」を主宰し、大正3年には初の句集『自然の扉』を刊行する。季語無用を主張し、自然のリズムを尊重した、無季自由律俳句を提唱する。門弟に、尾崎放哉や種田山頭火がいる。熊野の墓に詣でた際に詠った句が、層雲浜松支部の会によって建てられた。【藤の長房や 天龍は長き流れなり】。歌碑「天竜の 川風熊野の 藤揺らす ひろこ」開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。            【https://www.jalan.net/kankou/kw_%8CF/page_7/】よりスマホに今年の花の写真を映しながら撮影。開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。  【https://blog.goo.ne.jp/suishaalbum/e/58507fd243144e63fe5e91796143db36】より開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。    【https://blog.goo.ne.jp/suishaalbum/e/58507fd243144e63fe5e91796143db36】より『五重塔』『国指定天然記念物 熊野の長藤』 国指定樹は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれて多支幹となっていた。正面に回って。『国指定天然記念物 熊野の長藤(1本)』 「昭和7年7月15日指定樹齢:約850年(推定)  根廻:2.9m  樹高:2.5m特徴:花房の長さ1.5m(最長)にも及び、花の咲き終わった後に葉が繁るのが特徴である。」開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。         【https://jpinfo.vietnhat.tv/e31992.html】より来年の花の時期の四月下旬から5月上旬には是非来ようと旅友と話をしながら『熊野の長藤』を後にし、県道262号線(豊田竜洋線)から境内の藤棚を振り返る。道路脇の社。右側には『常夜燈』がここにも。そして左にあったのが『池田の渡し歴史風景館』。1000年も前から続いていたと記録される、天竜川で行われていた池田の渡し。徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる朱印状のレプリカなどが展示され、池田の渡船の歴史が入館無料で分かりやすく紹介されていたのであった。『池田の渡し歴史風景館』内部に入る。内部にはジオラマ風に池田の渡しを再現していたが、残念なことに川の水がビニールひもで再現されていたのであった。人形はかなりいい感じなのであったが・・・・・。舟の中の様子。荷物を運ぶ舟。『大通行と定助船・定助人足』と『天竜川池田渡船の終焉』。『徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる朱印状のレプリカ』『東海道五拾三次之内見付 天竜川図歌川広重』「東海道の中間地点である。見附の西、天竜川の急流を舟で渡る風景である。手前の舟の大きさと中洲の向こうの小さく描いた舟、さらに霞にけむる遠影の拭きぼかしの技巧によって空間の広さが描かれている。たばこをくわえて立つ船頭、そしてしゃがんで客待ちしている船頭の浅瀬に立てた竿が構図を引き締めている。」『歌川広重 人物東海道 五十三次 「見付」』『歌川広重 隷書東海道 「見附・天竜川渡舟」』『東海名所 改正道中記 天龍川仮橋 見付 はま松迄四里 歌川広重(三代目)』「明治8年(1875)制作。江戸時代的風景と明治の文明開化による風俗とが混在して描かれる。従来の風景は「浜松 名所ざざんざの松」、「舞坂 今切海上」である。「あら井 浜名の湖」も江戸時代的であるが、関所は描かれていない。対照的なのが「見附 天龍川仮橋」である。明治7年(1874)に天竜川の両端に欄干の付いた仮橋が設置され、川の中央部分は船橋で繋がれたが、その東側の仮橋が描かれているのである。人力車や傘も新しい要素といえよう。」これも広重の作。『天竜川池田渡船のはじまり』。『徳川家康と池田渡船』。『あばれ天竜』。『天竜川池田の渡船場』。『渡船の運営』。『旅人の渡船賃』。『熊野御前』。「綺麗な衣装をまとった熊野御前が、扇の上に枝を乗せて座っている。平宗盛に別れを告げようとしている場面であろう。誰の作で、いつのものかわからないそうであるが、掛け軸仕立てになっている」天竜川と池田の渡し 年表。更に続く。往時の『池田村』絵図。下が天竜川。渡しは池田村が管理し、乗船場は絵図にあるように3箇所あったようだ。渡船の様子を伝える写真が。天竜川国道(小立野~仲ノ町間)鉄橋完成の往時の写真。                            ​その3​  に戻る。                   ・・・​つづく​・・・ 2019.06.11 コメント(1)
  • 熱海ジャカランダの花見に この日・6月6日(木)はいつもの旅友Sさんと熱海の初夏を告げるジャカランダの花を見に行って来ました。茅ヶ崎にお住まいの旅友のお宅を6:30に出発、西湘バイパスを進む。手前に橘料金所が。国道135号線・小田原市石橋を進む。前方に真鶴半島そしてその先に三ツ石の姿が。そして前方に熱海城その下に熱海後楽園ホテルが現れた。そして熱海桜で有名な糸川の近くの有料駐車場に車を駐め熱海ジャカランダの花見に向かう。山の上の熱海城をズームで。時間は7:45過ぎ。熱海市の錦ヶ浦山頂にある民間観光施設。市街地や南熱海を一望できる熱海市内有数の絶景スポットとなっている。城郭は歴史的に実在したものではない。国道135号線沿いの『ジャカランダ』の花。この日は5分咲きぐらいであろうか。ネットによると満開にはまだ早そうと言うことは解っていたが、翌日から入梅に入る可能性もあり、雨が降る日々がしばらく続きそうであったので、この日に決行したのであった。新たな観光名所として、その「ジャカランダ」を本州一に集積させた公園が平成26年6月6日にオープン。今では熱海の初夏を告げる花木となった「ジャカランダ」熱海でのジャカランダのはじまりは1990年(平成2年)。国際姉妹都市であるポルトガルのカスカイス市から贈られた2本の木からと。世界三大花木の一つで、いまでは熱海の初夏を告げる花となったと。街路樹がジャカランダなのは温暖な熱海だからこそ。長崎県の小浜市の海岸にも同じように植えられているのだと。枝の先端に咲くジャカランダの花。まだ先端は開花せず蕾が。『ジャカランダ』はノウゼンカズラ科の樹木で、中南米原産の落葉高木。ラッパ型で青紫や青藤色の花が多数集まって咲き美しい。シウンボクなどの約50種がある。青空を背景に。熱海サンビーチ沿いの国道135号線沿いに植えられているジャカランダの花を楽しむ。今年の『ATAMIジャカランダフェスティバル2019』は6月8日(土)~23日(日)まで開催されると。その間ライトアップも行われるのだと。『ATAMIジャカランダフェスティバル』の幟。ジャカランダ(jacaranda)は和名をシウンボク(紫雲木)、キリモドキ(桐擬き)と呼ぶと。世界3大花木「ジャカランダ(紫雲木)、フランボヤン(鳳凰木)、スパトデア(火炎木)」の1つで、南米原産で鮮やかな薄紫色の花を咲かせることから『熱帯の桜』と呼ばれている。高さ15mにもなるノウゼンカズラ科の高木。マメ科の様な葉を付け、多数の薄紫色の花を咲かせていた。また、移民として南米に渡った日本人が,キリの花に似ていることから「桐擬き」と呼んで愛した花なのだと。やはり五分咲きか。シダに似た細かい無数の葉が対生に広がり、繊細で柔らかな印象。ノウゼンカズラ科キリモドキ(ジャカランダ)属の本種は熱帯アメリカに50種ほどありブラジルなど熱帯、亜熱帯地方では庭園樹や街路樹になっていることもあるジャカランダ。しかしジャカランダの最大の魅力は釣り鐘状の可憐な花。花ことばは「名誉」「栄光」その花は薄紫色とも藤色とも言えない神秘的な色で自生地では満開になると花が木を覆うほど咲きほこるのだと。今年の2月にポルトガルを旅行した際に、ロカ岬からリスボンに戻り途中に熱海の国際姉妹都市であるカシカイス市の街中を通過したのであったが毎年5月下旬から6月上旬にかけてリスボンを紫色に染めると現地ガイドからあったのでこの時期にカシカイスそしてリスボンを訪ねるとジャカランダの花を楽しめそう。        【https://hiveminer.com/Tags/jacaranda%2Clisbon/Recent】よりこちらはリスボン市内のジャカランダの写真。     【https://gramha.net/explore-hashtag/Jacarandas】よりそして、本場のジャカランタの花の写真では、日本のソメイヨシノの桜の花と同様に葉が出る前に花が一斉に咲くようだが、熱海のジャカランタは葉と花が同時に。夜間には竹灯篭が楽しめると。ネットから竹灯篭の写真を。       【https://www.ataminews.gr.jp/event/148/】より遊歩道には美しい花壇も。汚水マンホール蓋。熱海市の「市政施行80周年」記念の汚水用カラーマンホール蓋。右下に「熱海 8♨︎th anniversary」の文字が入っている。デザインは貫一がお宮を足蹴にする別れのシーン。その舞台となったお宮の松は現在3代目だそうだ。熱海名物の花火も描かれているが、もちろん別れのシーンと花火は無関係。赤いブーゲンビリアの花を背景に。ラッパ型で青藤色の花が多数集まって咲き美しいのであった。そしてジャカランダの花以外にも多くの花が楽しめたのであった。カシワバアジサイ。ブラシノキ。オーストラリア原産で、観賞用に栽培される。5-6月頃に開花し、花弁は緑で小さくて目立たないが、赤(ときに白)の長い花糸が目立つ。穂状花序をなし、花序全体がブラシのように見える。花序の先から枝が伸びるという珍しい特徴を持つ。キンシバイ(金糸梅)。再び高級マンションを背景にジャカランダの花を。青空の中に突き刺さるヤシの木を背景に。再びズームで設定を変えて。珍しい赤い花?『キング・プロテア』とのこと。重厚で大輪の花を咲かせる南国の美花で花の王者と称されるキング・プロテア(King proteas)。 外側の花弁のように見えるものは総苞片で、その内側に頭状花があります。頭状花は外側から咲き始めるのだと。この赤い花は『サンゴシトウ(珊瑚刺桐)』。「サンゴシトウ(珊瑚刺桐)」の名前の由来は赤くいっぱい咲く花の形が海のサンゴに似て→ 「珊瑚」枝葉に少々トゲあり → 「刺」葉っぱが桐みたい  → 「桐」とのことであるが、葉っぱが桐に似ているのでしょうか?花は上向きに反り、花弁はあまり開かず筒状のままであった。『金色夜叉』の山場を再現した『貫一お宮の像』。別の角度から。花が大きく、初めて見る配色の百合の花。オリエンタル系とトランペット系を交配させたOTハイブリット。花が大きく、見た事もない配色。フロリアート2002と呼ばれる百合か?熱海「ジャカランダ遊歩道」のジャカランダもこの日の見納め。再びズームで。中央に黄色の筋が。そして駐車場に向かって引き返す。『貫一お宮の像』の手前から。公衆トイレの建物の壁にはステンドグラスの如きカラーガラスが埋め込まれていた。『サンデッキ』。『熱海サンビーチ』にも人の姿はなし。『初島』。熱海市本土から南東に約10 kmの位置にあり、人口200人ほどの島。「エクシブ初島」が営業を続けているが・・・・・。『ムーンテラス』。熱海の海岸線に位置する親水公園には、南欧コートダジュールをイメージしたスカイデッキ、ヨットハーバー、石のアーチが美しいムーンテラスがある。ムーンテラスには、縁結びのスポットとして人気の「恋人の聖地」碑があり、石碑に向かって女性は右手を、男性は左手を合わせて愛を誓い、恋人募集中の人は片手で合わせて願うと幸せになれるとか。きらきらと輝きを放つ夜のライトアップも、ロマンチックな雰囲気を演出していると。『釜鳴屋平七の像』で、遠くを見通すような若者の像。安政年間(1854~60)伊豆国(静岡県)熱海村に発生した漁場騒動の指導者。平七は網主でありながら網子と共に行動し,6年11月韮山代官所へ門訴。八丈島へ遠島途中の大島にて死去した若者。この像の頭上に咲く熱海桜も美しいのである。ヨットハーバー。繋留費用はどのくらいかかるのであろうか?『アガパンサス』はこれからが盛り。『スカイデッキ』から熱海海岸の絶景を楽しんだのであった。糸川に架かる橋が並んでいた。国道135号線に架かる『熱海渚橋(あたみなぎさばし)』ガラスがデザインに入ってるのも、珍しいのでは。ガラスに描かれた魚の姿が路面タイルに映って。最後にもう一度、南アフリカ・ヨハネスブルクのジャカランタ並木の写真をネットから紹介します。一度、日本の桜の如き開花をこの目で見たいのではあるが・・・???【https://matome.naver.jp/odai/2142037030448933801/2142051900967627303】よりそして車に戻り、次の訪問場所の小田原城に向かったのであった。 2019.06.10 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その3:磐田市・森下南~天竜川治水紀念公園 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​松並木の残る街道をしばらく歩き続け、『森下南』交差点手前の交差点から国道と分かれて旧東海道を左手に入って行った。旧東海道『森下南』交差点を直進する。天竜川に向かって旧東海道を進む。豊田町の東海道には「東海道と歴史の道」という新しい道標『豊田町駅』が出来ていた。この「東海道と歴史の道」の途中の一言坂は見付宿から池田渡船への近道で、姫街道の一部であった。元亀3年10月、一言坂では上洛を目指す信玄と迎え撃つ家康が戦った。多勢に無勢の家康は撤退を余儀なくされ、退却する本隊を助け、本田平八郎忠勝が獅子奮迅の戦いをした。「一言坂の戦い」である。武田の軍勢はこの働きを目の前にして、「家康に過ぎたるものがふたつあり唐の頭に本田平八」と詠って、揶揄半分に称えた。「唐の頭」は「唐の頭の兜」のことである。国道一号線沿いに「一言坂の戦跡」の石碑が出来ている。先には『藤と香りの道』、戻ると先程立ち寄った『宮野一色一里塚』との表示。「東海道と歴史の道ー森下起点案内この道は昔の東海道です。ここから東の方を見ると、かつてこの道沿いに植えられていた松並木の名残りがおわかりになるでしょう。磐田市では、ここを起点に現在の県道413号一言坂付近までの約3キロの道を「東海道と歴史の道」と定め、いくつかのサインを設置しました。途中には江戸時代に東海道を旅する人たちの休憩地となった「一里塚」もあります。どうか、時間を超えて歴史の空気の中をゆっくり歩いて下さい。」そして右手には大きな石鳥居が姿を表した。『郷社 若宮八幡宮』。『郷社 若宮八幡宮』と刻まれた社号標。「若宮八幡宮 鎮座地:磐田市森下699 名 称:若宮八幡宮<通称:郷社(ごうしゃ)> 御祭神:大雀命(仁徳天皇)、誉田別命(応神天皇)、     息長足姫命(神宮皇后) 特 記:1873年(明治6年)に、近隣28ヶ所の神社を統合して     誕生した郷社で境内に遷宮し奉った神社が祀られていました。」文字がかすれて解読不能であったが、上記の内容が書かれていたのであろう。拝殿に向かって進む。参道左手の広場の小さな丘には『西之島学校跡』と刻まれた石碑が。「明治3年(1870年)西之島の豪農、熊谷三郎馬は静岡藩士大久保侗(おろか)を招いて私塾を開いた。初めは自分の家で、次は近くの徳蔵寺、そして西之島学校へと発展した。当時は授業料は受益者負担であった。「いい学校を作ろう」を合言葉にして「縄ない資金」を奨励し、寄付を願って森本の大工斎藤源平衛を東京、大阪へ派遣して学ばせ、洋風三階建の本館を建設した。」と。『手水舎』。『拝殿』。明治七年一区一郷に村社設置の御達しにより当時浜松県第二大区第三小区内二十九ケ村の神社を合祀して郷社若宮八幡宮と称した。50年近く経ていますが色白な岡崎式狛犬、子狛犬もしっかり彫られていた。『扁額』。『拝殿内/本殿』。横から『本殿』を。境内社は本殿前両脇に整列して並んでいた。立派な屋根付きの土俵があり、例祭での奉納相撲は有名だとか。神輿舎であろうか。『境内掲示板』。掲示板内には『令和元年 御大礼』の案内が。境内に、「藤と香りの道」として「郷社ポケットパーク」の碑があり、下記の話が書かれていた。『藤と香りの道 郷社ポケットパーク 第三場(出会いの場)』「熊野が、あいさつにあらわれたのは、そのときでした。宗盛の顔にほほえみがうかびました。熊野が天竜川の土手で、母のために蓮華の花をつんでいた夕ぐれ、そばを通った若い侍がこの宗盛だったのです。宗盛は、熊野の美しさに見とれてしまいました。そして、できることならもういちどあいたいと思っていたのでした。」『若宮八幡宮大鳥居造営記念』碑。平成二年の文字が。東海道夢舞台道標『豊田町 長森立場』「長森立場(たてば)江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村)には、立場という旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。 明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。 ここから数十メートル東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。 立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋をかね、旅人たちはお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩しました。また、馬もここで湯や麦などを補給しました。長森かうやく 「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気を博しました。山田家には今でも江戸時代に作られた桜の木の一枚板の大看板があります。この看板は、高さ一・四メートル、幅七三センチメートル、厚さ三・五センチメートルという立派なもので、これには「御免 御むそう 長もりかうやく 本家 山田与左衛門」と刻まれており、中央の上には十六弁の菊の紋章も刻まれています。こうやくの製法は、当時の主人山田与左衛門が夢枕にたった神様のお告げによって始めたとつたえられ、当主が代々受け継いできましたが、現在は作られていません。製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻であっても明らかにされることは許されませんでした。昔の歌に 「諸人のよき評判や長森の 諸病に菊の五もんかうやく」と詠まれています。」。豊田町 防火水槽 マンホール蓋。『天竜橋跡碑』信号を渡りその先の田園に囲まれた道を右折し進み、左折すると右手には『天竜橋跡の碑』が建っていた。『天龍橋碑』。この碑は明治になって架けられた「木橋」を説明した物で、当時の橋は橋銭(有料)を徴収していたという。  「天竜川は明治の初年まで長い間渡船によって通行をしていたが、明治六年(1873)架橋の第一段階として船橋の計画が中野町村側から出され、翌明治七年二月源平新田から中野町村に船橋が完成した。明治九年になりこれが木橋に架け換えられ、極めて便利な交通路となった。全長六四六間(1163m)巾二間(3.6m)、天竜橋も池田橋と同じように長い間「はしぜに」を徴収していた。昭和八年、国道に現在の鉄橋が完成したので、池田橋とともに名物の木橋は廃止され、取り除かれた。この橋の位置を末長くとどめるため、昭和四十八年三月、教育委員会はこの碑を建てた。(なお、天竜川船橋の記念碑は橋の西側の中野町に建てられている。)」。前方に天竜川の堤防が見えて来た。堤防に上がると、右手前方に天竜川に架かる、静岡県道261号磐田細江線『天竜川橋』が見えた。左手には、東海道本線の鉄橋・天竜川橋梁が。県営事業の一つとして1933(昭和8)年6月に架けられた全長919.5m、幅員7.3mのワーレントラス橋。道路橋としては日本で3番目に長いトラス橋であり、橋台の取り付け護岸は架設当時のままの石積が残っている。現在の天竜川橋が架けられるよりずっと昔の1874(明治7)年、船を横に並べてつなぎ、その上に板を渡して橋とした船橋が天竜川に架けられた。その後、1876(明治9)年に全長646間(約1,175m)、幅員2間(約3.6m)の木橋が賃取橋として架けられており、天竜川橋の前身となっている。ワーレントラス橋とは橋桁にトラス(三角形に組んだ構造)を利用した橋で、斜めに入れられた部材の向きが交互になっているものをいうと。天竜川橋は1967(昭和42)年まで国道1号線として東西交通を支え、その後は県道261号磐田細江線として、現在でも多くの人に利用されている。『天竜川治水紀念公園』を訪ねる。天竜川治水記念碑のあった場所には現在、この界隈にあったらしいいくつかの記念碑が集められており、その中になんとも意味深な形態の造形物が。天竜川橋『紀功碑』。明治になると、天竜川渡船の独占は無くなり、池田の対岸である中野町の浅野茂平が架橋に尽力した。明治七年に橋が完成し、その功績を称えたもの。その下の左右にも様々なプレートが。昭和40年に祈念碑が建立され、公園が整備されたようですが、平成14年国道1号線新天竜川橋の架橋に伴い、その姿を消したことが記載されていた。この石碑は?ピラミッド型の『天竜川治水を祈念して 1965 竹山祐太郎書』碑。                              ​その2​  に戻る。 ・・・​つづく​・・・ 2019.06.10 コメント(0)
  • アジサイ(紫陽花)を愛でる 先日・6月5日の早朝に、我が家から車で10分ほどの場所・藤沢市大鋸を流れる境川の両岸に植栽されているアジサイ(紫陽花)を愛でに行って来ました。ここ大清水橋から鷹匠橋までの約400mは、「大清水境川アジサイロード」と呼ばれているのです。今年も、6月16日に「第11回アジサイまつり」が開催されるとのこと。併せてこの境川の堤防上は、江の島へ向かって流れる境川と引地川を繋いだ「藤沢・大和自転車道」になっているのです。花のピークはもう少し先のようでしたが、様々な色のアジサイ(紫陽花)が境川沿いに咲き乱れていました。昨日の雨で開花も進みピークを迎え始めているのでしょうか。最近よく見かけるようになったカシワバアジサイ。カシワバアジサイは、北アメリカ東部原産のアジサイの仲間とのこと。葉の形がカシワに似ていることが、和名の由来。花は円錐状あるいはピラミッド型に付く独自の形状をしており、5月〜7月に真っ白い花を付ける。八重咲きと一重咲きがあるとのこと。未だ、白い花しか見たことがありませんが、他の色のカシワバアジサイがあるのでしょうか?アジサイのイメージカラーであり、人気の色でもある紫系アジサイ。紫系は色を細かく上げると多数あるし、濃い紫もあれば、薄い紫、赤紫など紫だけでもいっぱいありそうです。アジサイの漢字名『紫陽花』もこの紫系から。これはガクアジサイ。中心に集まっている小さな蕾のようなものが花びらで、その外側にはガク(葉っぱが変化した花を守る部分)が大きな花びらのようについている。この様子が額縁に似ていることから「ガクアジサイ」と名付けられたのです。こちらは開花がスタートしたばかりの花や満開の花が一株に同時に。シーボルトが来日していた当時,現在良く見るようなアジサイ(セイヨウアジサイ)が存在していなかった。シーボルトは,このガクアジサイの苗を持ち帰り,その苗から改良されたものがセイヨウアジサイなのだと。こちらは可憐なガクアジサイ。前方に見えるのが藤沢市民病院。別の場所から同じ角度で。中央の花を見る前に額を見てくださいと主張しているのであった。​​額の青と白の見事な共演。純白そのもの、いやピンクが僅かに。境川の堤防の両岸に。様々な色を追いかけシャッターを押し続けました。「七変化」とは「アジサイの別名」という記載があるほど、アジサイの花色の変化は、昔から周知の事実だったようです。ちなみに、花言葉は「移り気」で、昔はこんなアジサイの性質は「節操がない」と受け取られ、武士にはちょっぴり嫌われたと。両岸を再び。アジサイの花色の変化の原因は、大きく分けて二つあるのだと。まず、最近人気の秋色アジサイと呼ばれる『フェアリーアイ』や『西安』などは、秋まで長く開花していくうちに、鮮やかな花色がくすんだ緑色や赤色へと変わる。これは、花の中の色素が少しずつ分解されておこる現象で、老化現象の一種と。アメリカアジサイとされる『アナベル』も白色から緑色へ、日本アジサイ(ヤマアジサイ)とされる『紅』も白色から深紅へと変化するのも同じ現象。そしてもう一つは、土の酸度(pH)による変化。“同じ場所で育てているのに年々色が変わっている”、“同じ品種なのに場所によって色が違う”…こんな場合は、土の酸度が影響して花色が変わっている証拠だと。花店に並ぶアジサイの中で、『城ヶ崎』や『ダンスパーティー』など、同じ品種なのに店頭では青色とピンク色の2色が並んでいることがあるがこれは生産農家さんが土を調節して、違う花色に仕立てているからなんだとこれはネット情報から。見えている橋は「鷹匠橋」。ここまでが「大清水境川アジサイロード」。このくらいの色づきが好きだと言う方も多いのでは。青も色づき始めて。そして昼顔も。こちらは空き地に咲くピンクの「アオイ(葵)」の花。そして30分ほどの鑑賞を終わり自宅に戻る。そしてこちらは自宅のアジサイの花。ガクアジサイも。そして家に横の菜園の隅には「ゼニアオイ(銭葵)」が。ズームで。『キンシバイ(金糸梅)』も開花を始めています。我が趣味のセイヨウミツバチ?も花粉を集めに訪花中です。今朝も雨の合間に大きな花粉球を抱えていました。そして赤い百合の花も。 2019.06.09 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その2:中泉歴史公園~豊田南小学校前 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​次に『中泉歴史公園』を訪ねた。『中泉歴史公園』はJR磐田駅から徒歩10分程の場所にある公園で、かつては当地の武将・旗本・代官として、今川家〜徳川家に仕えた「秋鹿家」のお屋敷があった場所。現在残るこじんまりとした池泉回遊式庭園はその遺構。この屋敷は近代には「中泉遊廓」となり、この池泉回遊式庭園は料亭「開莚楼」の庭園にもなったとのこと。その後現在は「中泉歴史公園」として整備・公開されていると。『徳川家康と中泉御殿』徳川家康の鷹(たか)狩り好きは良く知られているが、JR磐田駅南側に「御殿遺跡公園」がある。天正15(1587)年ごろ、家康は中泉府八幡宮神主の秋鹿(あいか)氏から献上されたこの地に鷹狩りの際に使う中泉御殿を築いた。天正18年になると、家康は豊臣秀吉の命で関東への国替えとなるが、中泉の1千石は、その後も「在京賄料地」として安堵(あんど)され同御殿も廃止をまぬがれた。本拠の江戸と大坂を結ぶ東海道のルートを、中泉御殿を経由するように変更。鷹狩りの休憩・宿所としての使用だけではなく、秀吉死後の関ケ原の戦いでは同御殿から出陣、大坂冬の陣でも軍議が開かれるなど、軍事的に活用されたことが指摘されている。当該地は平成4、5年に発掘調査を実施し、大規模な堀と土塁が発見された。古絵図を見ても、大池を背後にした広大な敷地は、まさしく城郭構えであることが分かる。「御殿」は家康没後に廃止され、建物は近隣の寺院などに払い下げられた。その表門が同市見付の西光寺に移築され、主殿と裏門は同市中泉の西願寺などに移築されたと。遠江国は幕府幕府直轄領となった。家康の死後、中泉御殿の北東に隣接する地には、「御陣屋」と呼ばれる中泉代官所が造営されていると。『二代将軍 徳川秀忠公』と書かれた幟。大阪冬の陣を終えて帰還する元和元年二月七日、此処秋鹿屋敷に本陣を置き父家康公と対面したと。園内には秋鹿家の歴代当主が愛した庭園が整備・保存されていた。鮮やかな新緑が拡がっていた。注目すべきは公園のベンチ。なんと遊廓時代に妓楼の門柱として使用されていたものをベンチとして再利用しているのだと。旧東海道に戻り浜松宿に向かって歩く。右手の中山米店脇の筋入口に『弘法大師堂 磐田郡新四國 二十五番札所』と書かれた石柱が。先に進んで行くと小さな弘法堂が。『お弘法さま』と刻まれた石碑。奥には日魯大菩薩が安置された祠が。『ニオイバンマツリ』の花であろうか?花が紫から白へ花色が変化し、さわやかな芳香がある花。左手に、今年創立69年になる『磐田キリスト教会』。右手の『中泉交流センター』。中泉交流センター入口には『旧東海道』と刻まれた石碑も。交流センター前には『江戸時代の中泉絵図』が。こちらは『大正時代の中泉』。『​中泉軌道👈リンク』という鉄道が走っていたようだ。夢舞台東海道道標『中泉』。豊田町 宿境まで六町見付宿 宿境まで二十三町旧東海道はこの先で県道261号線と合流。左手のフェンスの中に小さな祠が。この祠の前の坂が「大乗院坂」といいこと。この坂の途中に、あったお寺が「大乗院」とのこと。坂の北の台地一帯は「御林」と呼ばれ、明治22年に開業した「中泉駅(現在の磐田駅)」のホームが、このあたりに設置された工場でで作られた赤煉瓦で築造されたとのこと。小さな祠がありました。『大乗院坂界隈』。「旧東海道のこの坂を「大乗院坂」という。この坂の途中に山伏の寺「大乗院」があった。そこに祀られていた地蔵菩薩像・阿弥陀如来像とも現存する。大乗院北の台地一帯は「御林」と呼ばれ、明治22年に開通した中泉駅のホームは、この地(現 千寿酒造)に設置された工場で作られた赤煉瓦をもって築造された。磐田の「煉瓦発祥の地」である。この北側の道(細江線)は開通した中泉駅より豊田町池田までの「中泉軌道」跡である。昭和25年5月19日の「空襲」によりこの坂の南北に4発の被爆があり、8名の死者をだした。現在地の東二十米の位置に推定樹齢約二百年、樹高二十三米、目通周三.六五米の黒松の「大松」があったが、昭和二十七年に伐採された。」合流地点から旧東海道を振り返る。『くろん坊様』「黒坊大権現は、旧東海道筋で、現在地の西約百米(現磐田化学正門)の田んぼの中にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされています。インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が手厚く葬ったものといわれており、毎年十一月三日が縁日とされています。   磐田化学工業㈱大松の会」磐田化学工業㈱が管理されている模様、現在では『くろん坊様』は差別用語では?合流後の県道261号線を進む。左手には、若い頃何度か訪れた磐田化学工業㈱が。そしてその先には高砂香料㈱も。祝川に架かる『一言橋』を渡る。武田信玄との「一言坂の合戦」のとき敗色濃厚だった徳川家康が、当地にある一生に一度、一言だけ願いを聞き届ける観音様(「一言観音」)に戦勝を願ったところ、急に戦況が有利になったとの伝承がある、らしい。「一言観音」は、この少し北側に位置します。「一言坂合戦」の史跡等は、国道一号線・「一言」付近にあるようです。そして『万能橋』交差点を直進。下を流れる『寺谷用水』。左手にあったのが『名残松』が。名残松の直ぐ先の変則十字路の右手筋に道標が建っていた。右は 「見附」、左は 「宮之一色一里塚」、道標の奥へ向かう方向には 「一言坂戦跡」 とある。一言坂戦とは、元亀3年(1572)徳川家康が武田信玄との戦いで、浜松城へ退却する途中一言坂で追いつかれたときの戦いである。道標から程なく右手に『宮之一色一里塚跡』が。ここは江戸日本橋から数えて63番目の一里塚であり、現在の一里塚は昭和46年に復元されたものであると。「江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全に旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木蔭は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。ここ宮之一色一里塚は、東海道の起点である江戸(東京都)日本橋から数えて63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えます。」説明文の右に、「旅人の様子を描いた図」、下には「東海道と歴史の道」が描かれていた。『一里塚の跡』石碑。『東海道と歴史の道』。別の角度から。昭和46年に復元された一里塚。前方左手に常夜燈が見えた。『宮之一色秋葉山常夜燈』。一里塚跡の先、左手筋の入口角に秋葉山常夜燈が建っていた。この常夜燈は、文政11年(1828)に建てられたもので、竜の彫り物があるので 「竜燈」 とも呼ばれている。風除けに燈籠の周りを板で囲み、上部は明かりが漏れるように格子になっている。「この常夜燈(灯籠)は平成八年部分改修しました。その棟札から文政十一年(一八二八年)に建てられたものとわかりました。 竜の彫り物があるので「竜燈」と呼ばれ数ある灯籠の中でも大変貴重なものです。 風よけに灯籠の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるように格子になっています。「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。 毎年自治会の代表が可睡斎にお参りし「秋葉総本殿」のお札をこの灯籠に奉納しています。 地域の安全と火防の守り神として多くの人々から慕われ崇敬されています。 旧東海道、一里塚、松並木、秋葉灯籠のある宮之一色へようこそ。よい日・よい旅を・・・。」見事な龍の彫り物。更に旧東海道を進む。道路を左折して『松向寺』を訪ねた。『神宮山 松向山』の『山門』。『本堂』 静岡県磐田市宮之一色413にある曹洞宗の寺。松向寺は、元和5年(1619)の創建で、現在の本堂は元禄14年(1701)に建立された。境内には子育地蔵尊・延命地蔵尊などがある。永代供養塔?境内から山門を。『うなぎ』の文字が気になったがグッと我慢。松向寺を出て、豊田川を越えると左手に名残松が数本立っていた。こうした案内碑を随所で見かけた。しかし、「東海道松並木」も「並木」というほどにはいかず、道路沿いに足元をアスファルトで固められた「松」がポツンポツンとあるだけ。磐田市立豊田南小学校前を通過。​つづく​                                                        ​その1​  に戻る。                   ・・・つづく・・・ 2019.06.09 コメント(0)
  • 旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)その1:JR浜松駅~JR磐田駅~西願寺 ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​『旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)』の前日・5月22日(水)は浜松までの車による移動日であった。途中、静岡県にある「続日本100名城」を訪ねながら進み、浜松駅南側のビジネスホテルに宿泊。そして翌朝5月23日(木)の我々の部屋からの眺望。この日も快晴。前夜入室したときに撮影したツインベッドの部屋。この日も早朝6:30前にホテルを出発。浜松駅南口。アクトシティ浜松(アクトシティはままつ)は、JR浜松駅北東の浜松市中区板屋町および同区中央三丁目にあり、市有施設と民有施設によって構成される複合施設群である。2009年(平成21年)現在、静岡県内で地上高のもっとも高いビルである「アクトタワー」を擁している。外観は、音楽の町・浜松を意識して、ハーモニカをモチーフにしている。地上高212.77m、地上45階、地下2階、塔屋1階の高層建築物で1994年(平成6年)8月開業。駅前南口広場のモニュメント、カリヨン「​鐘の調べ👈リンク」。かつては7、10、12、15時といった感じの時刻にメロディーを奏でるカリヨンであったそうであるが、現在は・・・・???。浜松駅JR線のりばから入り、東海道線上り電車でこの日のスタート地点のJR磐田駅に戻る。電車で天竜川を渡る。走ること10分で早くもJR磐田駅に到着。階段の壁にはジュビロ磐田のエンブレムが。「ツキ・ヒ・ホシ・ホイホイホイ」と鳴くことから“三つの光の鳥 =三光鳥“と名づけられたというサンコウチョウ。クラブキャラクターであるサンコウチョウのシルエットと、その鳴き声にちなんだ月、日、星を中心に配し、親しみやすさを感じさせることを主なテーマとしてデザイン。上下の青い帯は、ホームタウンの磐田市を流れる天竜川と、 大井川、安倍川、富士川など県内の大河を象徴。エンブレムとすることで、クラブの歴史や伝統をも表現しているのだと。駅前ロータリーと磐田駅舎。磐田市イメージキャラクター「しっぺい」。平成23年に、磐田市を広くPRするためのイメージキャラクターを公募し、全国から1,210点もの作品が集まったと。その中から市内に伝わる霊犬伝説「悉平太郎(しっぺいたろう)」をモチーフにした「しっぺい」が市のキャラクターに選ばれたのだと。何と言っても目を引くのが駅前の大木。樹齢700年を超えるという楠の大木が衰えることなくこの日も青空を背景に聳えていた。そして右側にはステンレス製の七重の塔が。高さ8.5m、台座の御影石には国分寺軒瓦のデザインが施されているのだと。商工会議所などの後押しもあり、磐田を象徴するものとして、天平のイメージで作られている駅舎に呼応するように造られたと。夜には、LED七色の光でライトアップが行われると。天平のイメージで作られている駅舎。天平時代の文化をこの地の「国分寺」七重の塔などの史跡にみることができるからと。この日の旧東海道のルート図。そしてこの日に最初に訪れたのは、JR磐田駅から数分の磐田市中泉にある『満徳寺』。鐘楼がある大門(二重門)が聳え立っていたが、扉はまだ閉まっていて中に入れず。時間は6:56。山 号:光恩山寺 名:満徳寺宗 派:浄土真宗(真宗大谷派)本 山:東本願寺開 基:教裕上人が永禄7年(1564年)に一向宗と徳川家康  との間で勃発した一向一揆により、三河から現在の 中泉の地に移ったと伝えられている。本 尊:阿弥陀如来そして次に訪ねたのが、『大乗院 三仭坊 (だいじょういん みひろぼう)』。千三百年続く磐田の小さな山伏寺。真言宗醍醐派の寺院で、また修験道(山伏)の祈祷道場でもある。階段を登り本堂に。階段の途中右手には『ヤマボウシ(山法師、山帽子)』が可憐に。多数が球状に集合した花、そしてその外側に大形白色の総包片が4枚あり、花弁のように見える。本 尊:『大青面金剛(庚申様)』、『三仭坊大権現』と刻まれた石柱が両側に。過去に二つの寺院が一つになった経緯で本尊はニ体、遠州の七坊でると。階段の上には明神鳥居(大正3年建立)と手水舎が。参道に鳥居がある珍しい寺。約220年前建築の『大乗院本堂(庚申堂)』。室町期の作と伝えられる本尊庚申様、脇仏として、役行者、理源大師、弘法大師などを安置。桁の木口が彫刻で隠され、朱色の模様も鮮やかであった。『大乗院本堂(庚申堂)』内部。『三仭坊本堂』。三仭坊大権現を本尊、脇仏として不動明王、聖観世音菩薩などを安置。『天女の壁画』。『大乗院本堂(庚申堂)』脇の奥の『六地蔵』そして手前の四角い池に浮かぶ小さな社殿・『弁天社』。小さな池の睡蓮の花。『六地蔵』。『三仭坊本堂』側にあった小さな祠に安置された石仏群。境内の大きな蘇鉄が2本。『本家帰りの蘇鉄』。家康も戦勝祈願に訪れ、見事勝利をおさめた折に送られた「蘇鉄」の子孫が今も境内に植えられているのだと。『三仭坊本堂』を横から。次に訪ねたのが『西願寺』。西願寺『本堂』。宗派:真宗大谷派。本尊:阿弥陀如来。『弘誓山』と書かれた扁額。『鐘楼』。西願寺の『山門』を境内側から。屋根には軒丸瓦と軒平瓦が。西願寺の『山門』を外から。白塀に囲まれて美しい姿。左手には鐘楼が。西願寺山門(旧中泉御殿裏門)は切妻、本瓦葺き、一間一戸、薬医門、安土桃山時代の城門建築の遺構として貴重な事から平成17年(2005)に磐田市指定有形文化財(建造物)に指定されています。角度を変えて。『旧中泉御殿 裏門 市指定文化財』。「西願寺の山門は、旧中泉御殿の裏門を移築したものである。旧中泉御殿は、徳川家康が浜松城市であった天正12年(西暦1584年)に現磐田駅南の地域に別荘として建築され、以後約30年間使用され、寛文年間に廃止された。この間、家康が鷹狩りを兼ねて休養に来磐している。後に主殿と裏門は西願寺に移され、主殿は本堂として使用されていたが改築され現存しない。平成17年11月21日、市指定文化財として指定されている。」と。                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.08 コメント(0)
  • 遠江・高天神城跡(たかてんじんじょうあと)へ ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​新金谷駅を後にして、次の目的地は静岡県掛川市上土方嶺向にある『高天神城跡』。国道473号線を走り、JR金谷駅前を通過し右手に旧東海道石畳(金谷坂)を右手に見ながら坂道を登っていく。途中車を駐め、大井川そして県道381号線に架かる大井川橋を見下ろす。静岡『空港入口』交差点を直進。此処を左折すると静岡空港へ。私が日本国内で利用したことのない数少ない空港の一つ。そして茶畑の中を30分ほど走ると左手に『高天神城址(たかてんじんじょうあと)』と書かれた案内板が。後ろの山が鶴翁山と言われ、山全体が『高天神城址』であると。標高132メートルの鶴翁山の北麓に到着。ここは高天神城の搦手側にあたり、ここから整備された登山道が山頂まで通じていた。鶴翁山の裾野に在った大きすぎる?駐車場に車を駐め散策開始。搦め手門跡には『高天神城想像図』が二つの峰を真ん中で繋いでいた。「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝。戦国時代に徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた決戦場で、東海一の堅塁を誇った山城。標高132メートルの鶴翁山の地形を巧みに活かした高天神城は「難攻不落の名城」と呼ばれていたが、家康の兵糧攻めに遭い落城した。 兵(つわもの)どもが夢の跡。うっそうとした杉や檜に覆われた昼なお暗い石段は、木漏れ日の光と影の中、戦国ロマンを抱いて、静かに時を重ねていた。城跡は国の文化財に指定。平成29年4月6日に「続日本100名城」に認定された。『武田勝頼が開城させた「難攻不落の名城」高天神城跡』。『続日本1004名城スタンプラリー設置場所案内図』。スタンプはここにはなく、『大東北公民館』内にあると。『郷社高天神社(たかてんじんじゃ)』石碑。高天神社は、静岡県掛川市下土方嶺向にある神社。高天神山の山頂付近に立地する。『郷社高天神社』石鳥居。高天神城城への道は西の峯に鎮座している高天神社の参道にもなっており鳥居を潜り進んで行く。その前に鳥居の右側には広場があり石碑が建っていた。説明板によると赤堀磯平と言う方の顕彰碑のようであった。お茶に関係した方のようであった。そういえばこの城の周りは茶畑が一面に。『史跡 高天神城跡』石碑。ここから東峰の本曲輪跡までは階段を200段以上?登って行ったのであった。『高天神社境内案内図』『高天神保健休養林案内図』。高天神城は、東峰に本丸、西峰に西の丸(高天神社があります)があり、鞍部(中央の低い部分)に矩(かね)曲輪がある「一城別郭」「連郭式山城」。まさに松本亀次郎の「もろ羽張り 鶴のそら飛ぶ姿かな」の通りですが、私的には「2つの羽を広げて空を飛ぶ鶴」型というより、「クランク」状、「Hの字」型。『搦手門跡』と書かれた木柱が右手に。その奥に杖も用意されていた。『搦手門址』。「この城は、1つの城に曲輪が2つあり、一城別郭の敷と言われている。東の曲輪は、この城の「うり」である。大河内政局(まさふさ)の石牢があります。また、西の曲輪には武田氏が補強のため造った横堀といくつかの切割(尾根を切る)の跡が残っています。」『搦手門』「城の裏門に当たり、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。元亀から天正二年にかけて、渡辺金太夫照が大将として城兵二百十余騎を率いて守備した所である。」渡辺金太夫照は渡辺金太夫信重ともいい、姉川七本槍 の一人。下土方村(城東郡の大字)を領した。城の裏門に当たるこの搦手門は、元亀から天正二年にかけて徳川方の渡辺金太夫が守備していたと。落城後、金太夫は武田氏に仕えた。衰亡する武田氏に対して金太夫の忠誠は変わることなく、最期は甲州に降り、天正十壬午年三月五日信州高遠城に奮戦討死した。比較的緩やかな階段を右に左に登っていく。周りの崖には堆積してできた縞模様が見られ、この山は大昔海の底だったのではないかと。そして道の突き当りの崖の所・左手に『三日月井戸』が。天正二年の七月に武田側によって作られたと云う『三日月井戸』。城中唯一の水の手で、枯れる事は無かったと云う。井戸と言うより小さな水たまり?しかし山城に水は貴重な物であり、これは湧き水の様であったが大切な施設であったこと間違いなし。上方から見下ろすとなるほど『三日月井戸』。岸壁に沿うように造られた井戸で、誰が入れたのか金魚が何匹か泳いでいた。三ケ月井戸を超えたあたりから石段から丸太の階段に変わり、勾配も少し急になって来た。『高天神城跡略図』再び『高天神保健休養林案内図』。そして階段を登り終えると、高天神社境内に入り狛犬が迎えてくれた。二頭の牛も迎えてくれた。「天神社」(天満宮)=「菅原道真」。死した不遇の道真の怨霊が雷神となって、清涼殿への落雷他天変地異の数々、それらが「天に満ちた」ことからその名となったのだ。右に尾白稲荷、左に『かな井戸 井戸曲輪跡』。『尾白稲荷』。「最後の戦い(天正9年)の後に城山に『白い大きな動物がいるらしい』という上方が入った。城主の叔父に当たる小笠原氏義が武士をやめ農民になっていた(帰農)が弓矢の名人であった。この事から、その者が射ると白い尾の狐だった。それを家康に報告した所、以後『尾白と名乗れと言われた。』と言い伝えられている。その後、御子孫が先祖の供養のため祀っておられる。」「由来  今から、千六百年余り前、この高天神に地の神、護国長寿の神として降臨。その後、当山での修験者「藤原仙翁」を下僕として附近一帯を守ってこられました。戦乱の世、自己の姿(尻尾の白い狐)を見せたがために、賞金を付けてのお触れが出され、ある夜、この井戸を飛び越えようとした所を、三の丸の大将小笠原與左衛門(強弓の師)に射止められました。與左衛門は、褒賞を得、性を「尾白」と改めてきたものの、以後、高天神は魔の山として恐れられるようになりました・・・・。神通力を奪われ、四百有余年間、このたび、高天神社の祭神、菅原道真公、また、藤原仙翁、大河内政局、四坊僧のお力添えを得て、目出たく、此所に尾白稲荷大神として醒誕、関係各位の同意により祭祀されることになりました。大変な神通力がある故、商売繁盛、縁談、難病諸病は勿論のこと、真心を以っての合掌には後霊験あらたかです。」前方を右に進み、坂道を登って行き、北へ回り込むと二の丸、袖曲輪があり、西下へ降りていく虎口がある。ここから北へ伸びた細い尾根には堀切で遮断された堂の尾曲輪、井楼曲輪があり、いずれも西下にある長大な横堀に面して土塁を設けており、見所の一つであるとのことであったが・・・・。しかし、この日はこれ以上、高天神城跡は目指さず、左手の高天神社社殿へ。『高天神城合戦将士英魂之碑』。『かな井戸 井戸曲輪跡』。井戸曲輪にあり高天神城内にある二つの井戸のうちの一つ、名の由来は不明だが、湧き出る水が鉄(かな)分を多く含んでいるためとも言われる。武田軍が高天神城攻めの際井戸の水脈を切ったためとも言われ、そのためか今は水は出ない。一説には篭城方のお姫様が落城時に身を投げて自害したとも言われる。『かな井戸 井戸曲輪跡』の奥に高天神社の二ノ鳥居と階段が。『この付近は、東西の曲輪の中央で、馬の背にあたる所で、激しい戦いが行われた場所と言われている。井戸の「かな」の表示は、鉄分が含まれているとか・・・。右方向に進むと、武田方が造った横堀、切割が確認できる。』『高天神社』二ノ鳥居と階段。『高天神社』。御祭神は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)天菩毘命(あめのほひのみこと)菅原道真公(すがわらみちざねこう)の3柱を祀っており、社名の「天神」も天神である菅原に由来すると考えられると。階段を上っていくと、『西の丸跡』という杭が建てられていてその後ろには御神木が。つまり元々はここは西の丸。西の丸は岡部丹波守真幸が守っていた時期があり、丹波曲輪と呼ばれてもいたそうです。ちなみに岡部丹場守真幸(元信とも言われる)は元今川家の武将で武田家に仕え、天正2年の戦いでは攻める側でしたが、天正9年の戦いでは高天神城主として徳川軍と戦い、壮絶な最期を遂げた武将であると。『社務所』。御朱印を頂きたかったが、社務所内に人の姿はなし。『高天神社例大祭』のポスター。高天神社は、高天神城跡にあり、かつての高天神城を守護する神社。この祭礼は、東峰にあった神社を西峰に移したことに始まり、1年に1回、3月最終日曜日に東峰の社(元宮)に神様が里帰りされる行事として行われると。今年は3月31日に行われたようであった。祭礼は桜の見ごろと重なることもあり、毎年多くの見物人でにぎわう。また、高天神城は、駿河・甲斐の武田氏と三河・遠江の徳川氏の領土争いで、戦国末期の激しい攻防が繰り返された場所。その攻防で重要だった火縄銃の演武も見応えがあるのだと。『高天神社』社殿前から登ってきた階段を振り返る。社殿近くからの駿河湾方面の眺望。『高天神社』社殿。小さいながらもなかなか立派な神社。優雅な姿をした鶴翁山にある高天神社は、旧城飼郡(きこう・紀甲評)土方にあり、式内「比奈多乃神社」の論社のひとつとも。扁額『高天神社』。高天神社の脇にひっそりとあった『高天神城記』石碑。ひたすら漢字で、由緒が書かれていのであろうか?お参りを済ませ、帰路に。高天神の井戸曲輪の近くにあった、この地出身の偉人松本亀次郎の『高天神歌碑』『もろ羽張り 鶴のそら飛ぶ 姿かなたか天神山 又の名鶴翁山 鶴峯 松本亀次郎』 『日本の中心の架け橋となった松本亀治郎』「1866年(慶応2年)現在の掛川市上土方嶺向に生まれた。ある時、「中国の学生達が日本に来て勉強したくても日本語を教えてくれる学校や本がない」という事を知り、日本語を教えてくれる教師になった。教えた学生は2万人余と言われている。その中には、文学者の魯迅(ろじん)、政治家の郭沫若(かくまつじゃく)、中国の首相となった周恩来(しゅうおんらい)がいる。」さきの大戦により東京からふるさとの生家に戻り、昭和20年(1945)に79才で亡くなった。」左に上って行くと『大川内石窟 御前曲輪』の案内板が。『大川内石窟』    【https://kojodan.jp/castle/264/photo/150779.html】より『御前曲輪跡』。本丸の南東を守護する曲輪で、本丸の前に位置することから付いた名称か、神様の前に位置することから付いた名称か不明である。太平洋戦争前に模擬天守が造られ、そのコンクリートの土台が今も残っていると(落雷で焼失)。         【https://kojodan.jp/castle/264/photo/54382.html】よりそして車に戻り、スタンプの置かれている『大東北公民館』に向かった。公民館内には子供達の『令和』の毛書が。スタンプを頂きました。『高天神城史年表』。『松本亀次郎の故郷』碑。『松本亀次郎先生(1866年~1945年)略年表』1866年(慶応2年) - 遠江国城東郡嶺村(現在の静岡県掛川市上土方嶺向)に生まれる。1888年(明治21年) - 静岡師範学校を卒業し、静岡高等小学校の国語教師となる。1903年(明治36年) - 佐賀師範学校を退職し上京。弘文学院、後の宏文学院で魯迅に日本語を教える。1914年(大正3年) - 東京・神田神保町に東亜高等予備校を設立。1945年(昭和20年) - 生家にて死去。 2019.06.07 コメント(0)
  • 大井川鐵道大井川本線の駅・新金谷駅へ ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​大井川を渡り、『水神公園』を訪ねた後は、新金谷駅(しんかなやえき)に向かう。新金谷駅は、静岡県島田市金谷東2丁目にある大井川鐵道大井川本線の駅。トーマス号やSL(蒸気機関車)の発着駅となる大井川鐵道・新金谷駅へは、新東名高速道路「島田金谷」I.Cから約8分。JR東海道線を利用した場合、「金谷駅」下車後、改札を出て大井川鐵道本線に乗換え約4分で到着すると。ここ新金谷駅は大正15年(1926年)に建てられたレトロな木造2階建て。1階部分には駅の改札口やカフェ、売店、コインロッカーなどがあり、2階が大井川鐵道の本社事務所になっていると。駐車場に車を駐め、駅舎に向かって歩いていると、係の男性が来られてこの場所は無料駐車場ではなく有料駐車場であると。写真撮影のみであるから直ぐに出ると話し、了解をもらう。入口の案内板を見ると、なるほど有料表示が、ただし入庫後20分まで無料と。本日のSL座席状況。蒸気機関車はこの日(5月22日)には11:52発、14:53発の1日2本であるがこの日は水曜日でもあり空席があるようであった。時間は13:36。正面には記念撮影ができるボードとSL色に塗られたポスト。ボードには機関車THOMASU(トーマス)の姿が。きかんしゃジェームス号が運転されると。学校の夏休み期間中はきかんしゃトーマス号ときかんしゃジェームス号が2台がほぼ毎日運転されるとのこと。    【http://oigawa-railway.co.jp/2019thomas_james】より運転カレンダー、運転時刻や乗車料金は「​大井川鉄道のHP​👈リンク」にアクセスして下さい。大人片道3000円、子供片道1500円(乗車記念グッズ付き)、予約が必要のようだ。        【http://oigawa-railway.co.jp/2019thomas_james】より改札口への扉付近には、黒いSLポストが。大井川鐵道で黒いと言えば…、そう、このポストはSLの車両塗装と同じ塗料で塗られたもの。このポストから投函した郵便物にはSLと富士山、茶娘がデザインされた風景印が押されると。ポストカードと切手は売店やプラザロコで販売中。トーマス号に乗る前後にしたためて、自分あてに投函する人が多いと。駅舎内はこの日は人の数は少なかった。売店には、観光客の姿が、そしてSLに関連した様々なお土産が。駅構内には、大井川本線を走る蒸気機関車(SL) の勇姿や車窓からの風景を写した写真が展示されていたがピンボケ。駅舎を出て駐車場方面に戻る。「トーマス」といえば青や赤や緑といったカラフルな蒸気機関車たちがたくさん登場するが、「ヒロ」は真っ黒なボディがクールな印象。駅構内には蒸気機関車を含む大井川本線の車両の整備を行っている新金谷車両区が併設されている。ここがSLの実質的な発着場所であり、運用を終えたSLはここへ戻ってくる。過去に存在した転車台は1970年(昭和45年)9月28日に撤去されたため、SLの方向転換ができない状態となり、長い間上り千頭発金谷方面行きのSLは原則的にバック運転(逆機)で客車を牽引していた。しかし、転車台を再度設置することが2010年(平成22年)ごろに決定され、2011年(平成23年)6月ごろに工事を開始、同年10月7日に使用を開始した。島田市の観光政策の一環でもあった。車両区西側・SLの留置場北側に設置され、通常は電動だが手押しで動かすことも可能であると。左手には花の終わった藤棚が。開花時の見事な姿の写真をネットから。今年の4月29日の姿のようだ。      【https://www.train-watch.com/2019/04/29/1996113】より蒸気機関車『C11227』が新金谷車両区内に停車していた。「1942(昭和17)年9月に製造された、戦前仕様の程度良い機関車といえます。(翌年製造分からSLの設計は戦時設計に変更されました。)C10形の改良型として生まれたタンク式機関車です。大変すぐれた性能で、時速85キロでの高速で走行ができます。227号機は北海道標津線から大井川鉄道へ、1975(昭和50)年11月22日に入線しました。1976(昭和51)年7月9日に大井川鉄道でSLの復活運転を開始して以来、今もなお活躍し続ける大井川鐵道を代表する機関車です。」車歴:1942-09-18製造→納入;国鉄;C11227→1942-09-18竣工→1945-09-30現在;苗穂→1949-03-01現在;苗穂→1953-11-03現在;苗穂→1964-04-01現在;苗穂→苫小牧→1974-03-11釧路→1975-06-25廃車;釧路→譲渡;大井川鉄道(静岡県);C11227→1976-07-09営業運転開始新金谷駅改札から駅構内を東南へ約250メートル進むと、そこには平成23年(2011年)に設置された転車台が。新金谷駅から出発したトーマス号やSLは、終点の千頭駅で方向転換をし、こちらに戻ります。そして往復の運行を終えると次の出発に向け、ここでもくるっと方向転換。​動画👈リンク​でその様子が見ることが出来ます。この日は、『C12164』が転車台に。『C12164』は「1937(昭和12)年に日本車両で製造されました。C12形は昭和初期の不況時に簡易線用として経済性を求めて製造されたSLです。大変便利に使えたSLで、15年間で293両が製造されました。中央本線 木曽福島機関区で現役を退いた後、千頭駅での静態保存展示を経て、1987(昭和62)年2月に日本ナショナルトラストの保有となり、同年7月25日に営業運転を開始しました。車両の管理は大井川鐵道が行っています。2018(平成30)年現在、運休中です。」転車台に乗った『C12164』を横から。『SL転車台完成記念』の碑。平成23年10月7日の文字が。大井川鉄道の蒸気機関車関連の説明ボード。蒸気機関車は『C11190』、『C11227』、『C108』、『C56 44』の4種類の蒸気機関車(SL)が新金谷駅~千頭駅間・路線距離は39.5kmを約80分で運行中のようであった。蒸気機関車用の石炭ヤード。『C12164』を後ろから。そして急いで車に戻ったのであった。 2019.06.06 コメント(0)
  • 藤枝市・志太郡衙跡(しだぐんがあと)へ ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​田中城跡を訪ねた跡は、藤枝市南駿河台にある古代駿河国志太郡の郡家(郡衙)の遺跡志太郡衙跡(しだぐんがあと)を訪ねた。今からおよそ1300年前の奈良・平安時代の郡役所跡であると。別名を「御子ヶ谷遺跡(みこがやいせき)」。国の史跡に指定されている。青島北地区交流センター駐車場に車を駐め、『志太郡衙跡』に向かって歩く。『国史跡志太郡衙跡・志太郡衙資料館』の案内柱。青木川に流れ込む水路沿いに進む。『国指定史跡・志太郡の郡衙跡』案内板1977年(昭和52年)に団地造営のための区画整備を行っている際に発見され、その後の発掘調査によって掘立柱建物30棟をはじめ、門や板塀、井戸・道路などの遺構が次々と発見され、古代郡衙の構造を示すものとされた。さらに出土した260点余りの墨書土器から、「志太」という地名と大領・少領・主帳などの郡司の官職名が確認され、志太郡の郡衙跡と判明した。このため、当該区域での団地造営は中止され、史跡公園として整備された。遺構は東西と南側を丘陵に囲まれた谷部に位置し、8世紀前半から9世紀前半にかけて3期の造替を繰り返したと見られる。建物は南北に棟の方位を揃えた規則的な配置であるが、小規模かつ典型的な郡庁と異なる構成であるため、郡庁や正倉ではなく厨家や館の遺構と推測される。『志太郡衙跡』全体の写真を。郡衙とは、奈良・平安時代に全国の郡ごとに置かれた古代の役所のことを言う。志太郡衙跡は、御子ヶ谷遺跡とも呼ばれ、昭和55年に国の指定史跡となっている。東側にある丘陵には、5~6基の古墳があるようです。古墳の上は展望台のようになっているとのことで、そこからの写真であろうか?      【https://www.shizuoka-fc.net/location/detail.html?C=2789】より青島北地区交流センター側の水路沿いの入り口から『志太郡衙跡』に入る。板塀と土塁で囲われていたようですが、土塁の痕跡はなくなっていた。石敷道路は、川原石を敷き詰めたもの。古代から道路を舗装する技術があったことに驚き。『石敷道路と板塀』。遺構はこの谷口の微高地上に集中しており、掘立柱建物30のほか、井戸・板塀・道路などがみとめられる。建物は東西あるいは南北に棟の方位をそろえ、一見して官衙風に整然とした配置をとっているが、これらは、柱穴の重複関係や柱穴からの出土土器により、およそ8世紀前半から9世紀前半にかけて3期にわたって造替がくりかえされたものとみとめられる。建物群の西半部には規模の大きい東西棟を中心として、井戸をもつ広場や脇殿様の南北棟が展開し、本遺跡の中枢部分を構成しているものと推定される。建物群東半部の東辺及び南辺は土塁状施設あるいは板塀によって囲まれるが、ここには8世紀後半以降、倉庫及び雑舎様の建物が密集して建ち並び、また東南隅には柵で小区画をもうけ廂付建物を配置している。南辺の板塀の外側に沿って幅4〜6メートルの道路がある。板塀の西端に開く門を経て建物群中枢部に通じたものと考えられ、礫がまばらに敷かれている。『正門跡』。『正門と板塀』。「この門は、志太郡衙へ入る正門で巾が2m、高さが2.5mあります。2本の円柱の上に切妻造りの屋根がのる形の門で棟門(むねもん)といいます。両側についている板塀は、高さ1.8m、長さは右3.6m、左は3m、柱は径24cmあります。この正門を入って右側に曲がって正面にある大きな建物が郡衙の主な建物です。正門の南側は、三方を山に囲まれている沼地となっており、ここから墨書土器や木簡を書き込んだもので「志太領」、「志太少額」、「主帳」、「志厨」など260点余りが出土しています。木簡は木を薄く短冊状にして墨で文字を書いたもので、上が貴重な時代には文書、机札(つくえふだ、荷札)などに使用されました。出土した10点の木簡はほとんど読めなくなっていますが、「女召  付里正 丈夫麻:呂」、「安人」、「友足」、「申進上夫事 小長谷浄成」などの文字が書かれています。沼地で発見された木製品には大足、シロカキ、エブリなどの農機具、曲物、下駄、箸、斎串、杓などがあります」『板塀』。板塀は丸太を縄で固定し補強されていた。復元された掘立柱建物が中心に。『掘立柱建物(A)』「3棟の掘立柱建物はすべて床張建物です。南側に5間(11.6m)✕3間(5.4m)の大型掘立柱建物があり、その北側に接するようにして3間(4.5m)✕2間(5.1m)、2間(4.5m)✕2間(4.4m)の建物が2棟並んで建てられています。南側の建物は、郡衙の中で最大規模の立派な建物です。柱はすべてヒノキでその径は、30~40cmもあり、束柱をもち建物の周囲には雨落溝をめぐらしています。柱は地面に一辺1.2~1.4m、深さ70~100cmの穴を掘り、柱が重みで沈まないように底を礎板(板片)や礫を敷き、その上に柱を立て、周囲には礫などを詰めて補強しています。※間・・・柱と柱の間を間という。」東側にある丘陵方面にも建物(掘立柱建物(B))が。『掘立柱建物(B)』「6棟の掘立柱建物は、大型掘立柱建物(60m2~62.5m2)と比べて規模(19.5m2~37m2)も小さく倉庫などとして利用されていた建物です。この6棟のうち、2棟が床張建物で4棟が土間建物です。円柱のあるものが床張建物で、ないものが土間建物です。また、柱に囲まれた石貼にもその違いを明示してあります。」『井戸』跡。『井戸』「井戸は、一辺2.5m、深さ1.6mの穴の中に井戸枠を7~8段に積みあげたもので井戸枠内側は一辺75cmの正方形をしています。井戸枠は、長さ1~1.6m、厚さ3~5cmのスギ板の両端に組みやすいようにノコギリで切り込みを入れ、組む順番を隅や釘の先を使って「東三」や「八東」などと書き込まれています、井戸の底の真ん中には、径38.5cmの曲物井筒が据えられています。井戸の中からは、曲物、挽物皿、下駄、土師器、ヒョウタンなどが出土しています。」掘立柱建物(B)と一部復元された掘立柱建物(C)。『建物平面表示』。別の場所にも。柱の位置も確認出来た。『掘建柱建物(C)』。「この建物は、四方を板塀によって囲まれ,他の建物とは隔離された特別な配慮がなされています。  復元にあたっては、当時の建物が現存していないため建物構造については、「正倉院文書(しょうそういんもんじょ)」に残されていまる藤原豊成板殿(ふじわらとよなりいたどの)を参考にし、屋根は板葺(いたぶき)きの切妻(きりづま)で一枚板の葺降(ふきおろし)しとしています。壁については,土塁とし,春日大社着到殿を参考にして,北及び東西の一部だけを復元しています。建物の規模は、5間(8.7m)✕3間(6.9m)で出入口については南側に扉があったと思われます。土間造りになっていますが、床には台などを置いて使用されていたものと思われます。発掘調査によると柱材はヒノキで南側一列(6本)は径23cm、他(14本)は径27cmで、復元にあたっては、これと同じものにし、屋根材には杉を使用しています。※間・・・柱と柱の間を間という。」復元された建物。復元とはいっても、屋根と柱以外は、壁が北側だけ復元されているものである。南側には、さらに壁と扉があったものと考えられていると。『志太郡衙跡』を一番奥から。遺跡の隣には、『​志太郡衙資料館👈リンク​』もあり、発掘の様子や出土品を見学することができるとのことであったが、この日は時間の関係上訪ねなかった。 2019.06.05 コメント(0)
  • 藤枝市・駿河 田中城跡へ(その2) ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​『史跡田中城下屋敷』の見学を続ける。下屋敷内にあったとされる『茶室』。明治38年頃千歳(ちとせ)の村松家にあったものを、上伝馬の奥野氏が譲り受け屋敷内に移築したとされます。元は田中城家老の茶室であったとされ、数寄屋建築で西側に4畳半の茶室、東側には給仕口の付いた6畳の待合がつながっています。江戸時代後期には城主の下屋敷(別荘)が置かれ、築山・泉水・茶屋などを設けて四季の景色を楽しんだと。そして、『田中城本丸櫓』の内部を見学。『田中城本丸櫓1階展示室』。入り口直ぐ左には『まぼろしに田中城 天守閣』(左)と『田中城櫓模型』(右)実際には田中城には天守閣は存在しないが、西益津小学校の校庭にあった模型を参考にして作ったと。『田中城櫓模型』。模型は、アイスキャンデーの棒約7000本を使用し、石垣は松笠(松ぼっくり)の鱗片、3000枚で作成したと。そしてこの松笠は、地元西益津中学校とニの堀の間の松の木から落下したものであると。田中城は、平野に作られた平城。本丸を中心に4重の堀が同心円状に配置された全国でも珍しい構造の城。『田中城清水御殿(二の丸御殿)』「清水御殿は、現在の西益津中学校の校舎付近にありました。田中藩の政務をつかさどる中心的な建物で、建てられた場所は三ノ丸にあたりますが、二ノ丸の一部とみなされていました。1632年に幕府に出された絵図には、すでに御殿らしい建物が描かれています。その後、火災にあったり、地震で倒壊したこともありました。1860年に再建された御殿は6棟からなり、建坪は約535坪(約1850m2)の立派な建物となっています。廃城後は、田中高等小学校や藤枝農学部の校舎に利用されましたが、昭和2年に消失しました。」『田中城遺構と現在周辺地図』。今年の干支『亥(イノシシ)』の彫り物。2階は田中城の資料の展示がメイン。田中奉行だった高橋泥舟の書が並んでいた。『田中藩の領地と田中藩士』。『田中城主の変遷』。田中城の変遷では、松平氏→水野氏→松平氏→北条氏→西尾氏→酒井氏→土屋氏→太田氏→内藤氏→土岐氏→本多氏と目まぐるしく変わった事が解った。『信玄・信長・秀吉・家康も宿泊した田中城』。東海道の要衝地という事もあり、戦略上重要な拠点として今川氏、武田氏から注目された。織田信長、豊臣秀吉、徳川家光なども宿泊しており、御殿は格式が高いとされる檜皮葺の屋根であったと。『田中城本丸櫓と高橋泥舟』。1869年 静岡藩田中勤番組頭、田中奉行として高橋泥舟が入った。徳川慶喜の身辺警固を勤め「幕末三舟」の一人。『幕府の要職に出世した田中藩主』。関ヶ原の戦い以前に徳川氏に従った1万石以上の大名を譜代大名と呼ぶ。幕府の要職者は譜代大名が多く、田中藩主も譜代大名が多く、藩主になった後に出世していくケースが多かったのだと。『田中城本丸櫓』二階から入り口の冠木門を見下ろす。『田中城の構造』。田中城は4つの曲輪(区画)と4つの堀が同心円状に配置されており、その形 状から別名「亀城」「亀甲城」と呼ばれていました。城の始まりは一色信茂の居館 であるといわれており、本丸・二の丸の方形の部分がこのことに由来すると考え られています。三の丸は四隅が突出しており、この形状が亀に似ているとも言わ れています。  武田信玄が攻略した際には既に三の丸まで存在しており、武田氏による改修 で6箇所の馬出しの曲輪が築かれたとみられます。そして、田中藩初代藩主であ る酒井忠利が、三の丸の外側に円形の堀と土塁を設けました。その内外に侍屋敷 を造成し、近世田中城の基本的な形が整いました。  田中城には江戸後期には天守閣は無く、本丸隅の石垣上2箇所に二階建ての 櫓が建てられていました。また、堀はかきあげのままで、このかきあげた土で作っ た土塁も高く積み上げただけの素朴な築城でした。その一方で、六間川と四の堀 を繋いでおり、川をせき止めることで全ての堀に水が進み文字通り浮城化する 仕組みとなっており、周囲の湿田とあわせ、堅固な城でした。  田中城は、東海道の近くに立地し街道の押さえの城であるとともに、青池から 発する六間川の水運により、瀬戸川から海につながる城でもありました。そして『幕末のころの田中城復元図』。『戦国期の田中城鳥瞰図(推定復元)』。田中城の構造上の特徴は、1.平城 2.同心円形の縄張りである。そのため亀甲城又は、亀城と称された。3.馬出曲輪(三日月堀)が6ケ所にある。4.六間川の水を水運や城濠の増水用に利用した。5.姥ヶ池の浄水を引き入れ城内に配管設備を施した。ことなどがあげられる。『志太地域の領主と農村』。江戸時代、幕府は大名の力を抑える為に、所領を分散させる飛び地政策を取りました。この地域も田中藩だけではなく、旗本領、掛川藩領、沼津藩領など複雑に入り組んでいました。『江戸(嘉永)時代大名紋章及城郭図』。今の日本地図をベースに各藩ごとに区切りしている。どの藩が、何万石か、城主は誰なのか見ているだけで飽きないのであった。二階窓から風景。手前に見えているのが、長楽寺村郷蔵。入り口に戻り再び冠木門、本丸櫓を。敷地内に残されていた土塁と復元された泉水。庭園の緑を楽しみながら駐車場に向かう。『史跡 田中城下屋敷』の駐車場側入り口。『田中城三日月掘(馬出曲輪)』。芝生の向こう側が三日月状にへこんでいて、水が貯まり堀のごとくなっているのがわかったのであった。馬出曲輪は写真のような三日月形の堀の背後(写真のコンクリ壁の部分)に土塁を盛った曲輪のこと。「三日月堀と言うのは、正式には馬出曲輪といい、甲州流(武田式)築城法の一つである。諏訪原城(金谷)、小山城(吉田町)、江尻城(清水)など武田氏の築いた城郭にはみんな馬出曲輪が備えつけられている。馬出曲輪とは、城門の外側に三日月形の堀とその背後に土居(土塁)を設けて、敵が場内へ侵入するのを防ぐための備えである。したがって、三日月堀だけが単独で存在するものではなく、堀と土塁、その奥の広場、耕形を持った城門の三つが一組になって城の守りを固めていたのである。田中城には大手一之門・ニ之門、平島一之門、新宿一之門・ニ之門、清水御門の外の六箇所に馬出曲輪が備えつけられていた。しかし、現在眼にすることのできるのは新宿ニ之門の外につくられた三日月堀だけで、それも実際の大きさの約三分の一位である。下の絵図でわかるように、ニ之堀に突き出た外耕形を持つ新宿ニ之門、ニ之堀と橋、広場、土居と三日月堀でニ之丸への敵の侵入を守っていたのである。三日月堀の大きさは長さ四五.四五メートル、幅〇.〇〇メートル、深さー.八ニメートルであった。背後の土居は長さ三五.四五メートル、高さ三.四ニメートルもあった。背後の広場には敵に知られないで城兵がここに集まり、三日月堀によって二分されて場内に侵入しようとする敵を待ち伏せしていたものと思われる。」そして車に戻り、次に向かったのが藤枝市南駿河台1丁目にある『志太郡衙跡』。    ​​その1​  に戻る。                  ・・・​つづく​・・・ 2019.06.04 コメント(0)
  • 藤枝市・駿河 田中城跡へ(その1) ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​興国寺城跡を後にし、再び国道1号線を進む。次に向かったのは藤枝市に残る駿河『田中城跡』。前方には薩埵峠の姿が。そして興津川を渡る。国道1号線 新宇津之谷隧道に入る。『田中城』位置図。JR東海道本線、西焼津駅下車、バス7分「西益津中学校前」降車、徒歩すぐで田中城本丸跡。Google map より。県道30号線から県道224号線に入る場所にあった『田中城跡』石碑が。田中城は天文6年(1537年)に駿河今川氏によって築かれた。永禄13年(1570年)の武田氏による駿河侵攻以降、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要として重要視された。天正10年(1582年)、徳川勢により攻められ開城。天正18年(1590年)の徳川家関東移封後は駿府城主中村一忠の管轄となった。慶長6年(1601年)、酒井忠利が田中藩主となり城域の拡張や藤枝宿の城下町への取り込みなどを行った。酒井忠利は慶長14年(1609年)に川越に転出し、以後は駿府に居を構える徳川頼宣・徳川家康によって支配された。なお、元和2年(1616年)1月に徳川家康は田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食した。これが家康の死因とする説がある。寛永10年(1633年)以後、松平氏、水野氏、北条氏等が封じられた後、享保15年(1730年)、本多正矩が4万石で封じられ、以降明治維新まで同地に拠った。明治元年(1868年)、最後の田中藩主本多正訥が安房長尾藩に移封される。駿河国に転封となった徳川本家(静岡藩)の支配地となり、高橋泥舟が城を預かる。のち廃城となった。県道224号線を進むと、大手二之門跡と大手二之堀跡が右手に。木橋の太鼓橋とその先の掘。田中城 ニ之掘。ここには『大手ニ之門』も。『藤枝市指定史跡 田中城 ニ之掘』「戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原型が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。二之掘は、本丸から二重目の掘りで、幅12.7~21.8m、深さ2.1~2.9mでした。この付近は、大手二之門の入口にあたり、掘りを渡るために長さ5.3m、幅3.6mの大手ニ之橋がかけられていました。その北西側にはかつて三日月掘りがありました。」本丸を中心に、直径約600mの同心円状に3重に堀を巡らす珍しい構造を持つ。また、二の丸及び三の丸外に丸馬出しが計6箇所設けられており、武田氏流城郭の特徴を示している。本丸及び二の丸跡には西益津小学校が、三の丸には西益津中学校がそれぞれ設けられ、遺構の保存状況は必ずしも良くないが、一部の水堀及び土塁が残る。また、不浄門が旭傳院山門として、長楽寺に村郷蔵が、それぞれ移築され現存する。『田中城 鳥瞰図』。上図と向きが反対。堀は全部で4重ほどあり、すべて水堀である。これらの堀の水は、下屋敷との間を流れている川の水を利用していたのであろう。堀の幅は10~20mほどであり、郭内側には土塁が盛られていたようである。これは3の丸周辺に何カ所か確認できる場所があるが、高さ4m、累上の幅が3,4mほどと、けっこう大規模なものであったと。       【http://yogoazusa.my.coocan.jp/marikotanakakoyama.htm】より西益津小学校・校門前に「田中城本丸跡」の木柱が立っていた。今は、藤枝市立西益津小学校の敷地となっている本丸跡。ここを中心として同心円状に三重の堀を巡らした平城。『西益津小学校の生徒通用門』。『西益津小学校の沿革』。西益津小学校は、1872年に田中城本丸跡に創立された歴史と伝統のある小学校。地域の高い教育力に支えられ、音楽の世界では『月の砂漠』を作詞した加藤まさを、サッカーの世界では名波浩など、多くの著名な人を育てて来たと。 「学ぶ喜びと自信をもって進む子」を学校教育目標とし、「自ら進んでよりよい判断・実行」を重点目標にして実践。歴史と伝統を支えるために、毎年亀城祭を催し、大名行列などを行っている と。本丸跡に建つ西益津小学校内にある田中城の模型。わりとよくできている。ミニチュア系の模擬天守があるのも楽しい。しかし、実際にはこのような天守は存在してはいなかったと。車に乗り田中城の周囲を巡る。『田中城 三日月掘(馬出曲輪)』。「三日月堀と言うのは、正式には馬出曲輪といい、甲州流(武田式)築城法の一つである。諏訪原城(金谷)、小山城(吉田町)、江尻城(清水)など武田氏の築いた城郭にはみんな馬出曲輪が備えつけられている。馬出曲輪とは、城門の外側に三日月形の堀とその背後に土居(土塁)を設けて、敵が場内へ侵入するのを防ぐための備えである。したがって、三日月堀だけが単独で存在するものではなく、堀と土塁、その奥の広場、耕形を持った城門の三つが一組になって城の守りを固めていたのである。田中城には大手一之門・ニ之門、半島一之門、新宿「え門・ニ之門、清水御門の外の六箇所に馬出曲輪が備えつけられていた。しかし、現在眼にすることのできるのは新宿ニ之門の外につくられた三日月堀だけで、それも実際の大きさの約三分の一位である。下の絵図でわかるように、ニ之堀に突き出た外耕形を持つ新宿ニ之門、ニ之堀と橋、広場、土居と三日月堀でニ之丸への敵の侵入を守っていたのである。三日月堀の大きさは長さ四五・四五メートル、幅-0.00メートル、深さーヘニメートルであった。背後の土居は長さ三五・四五メートル、高さ三・四ニメートルもあった。背後の広場には敵に知られないで城兵がここに集まり、三日月堀によって二分されて場内に侵入しようとする敵を待ち伏せしていたものと思われる。」。この三之堀付近は三之丸西にある御館(おたて)のちょうど西側にあたり、この堀に面した四之曲輪には家老らの屋敷が立ち並んでいたと云う。四之曲輪は、江戸時代の初めに駿河田中藩・初代藩主である酒井忠利が実施した改修で追加され、最終的に田中城は四重の堀で囲まれる縄張となった。『藤枝市指定史跡 田中城 三之掘』。戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原型が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。三之掘は、本丸から三重目の掘りで、幅18~27m、深さ1.7~4.2m、土塁の高さは、水面からおよそ5mです。堀の北側からは今でもきれこの掘りに面した四之曲輪には藩士たちの屋敷が並んでいました。土塁の跡から三の丸の堀を見る。次ぐには田中城の南東隅にあっ下屋敷跡へ。『田中城下屋敷』パンフレットの表。『田中城下屋敷』パンフレットの裏。ここは一色氏やその後裔の屋敷跡と伝われ、江戸後期には城主の下屋敷(別荘)が置かれ、茶屋や庭園(築山、泉水)、稲荷社が設けられていたと。『田中城下屋敷』の幟。白塀の奥には『田中城本丸櫓』が。『史跡・田中城下屋敷案内図』。静岡県藤枝市では平成8(1996)年に、この下屋敷跡の庭園を復元するとともに、田中城にゆかりの本丸櫓、茶室、仲間部屋・厩、そして長楽寺村郷蔵などを移築・復元したとのこと。但し、時代が経過して宅地化が進むとともに南側にあった庭園の一部(築山や泉水)などが埋め立てられて畑となった。なお入場料は無料だった。入り口には冠木門が。当時の図面(1/20縮尺)をもとに復元したものであると。門を抜けると右手に受付が。『入場ご案内』。開場時間は9~17時で入場無料。様々な案内が。『田中城復元図面』こちらは田中城復元図の上に現在の図面を重畳させたもの(赤字は廃城直前まであった建築物、青色は堀川、茶色は土塁をそれぞれ示す)。現在、本丸跡には西益津小学校の校舎が建ち、本丸堀や二之堀は埋め立てられ、県道224号線が城を縦断しているのであった。櫓は田中城の本丸にあったもので、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていた。往時と同様に復元された石垣の上に移築されていた本丸櫓は木造で二層二階、屋根は銅板葺きであるから江戸後期のものと推測されている。『田中藩 牓示石(ほうじせき)蹟』と『顕彰碑』。『従是(これより)西田中領』と書かれていた。この傍示石は田中領と岩村領との境界傍示標である。弘化年中(1846年頃)幕府より諸侯領地の傍示標は総て石材に改むべしとの布令があったので、田中領主本多侯は、欧陽詢の書風よろしき、領内小土の藪崎彦八郎に命じ「従是西田中領」の文字を書かせた。又これを城下、長楽寺町の石材業某に命じ彫らせた。筆跡彫刻ともに街道中に比類なき作と称された。斯くして、この碑を領地境に建立したが、やがて明治4年(1871)、廃藩置県令が発布され、この傍示石を撤去することとなり、故あって水守の菊川晋一氏宅に在ること数十年、1950年頃田中城跡、現西益津中学校正門脇に建てられ今日に至っている。内部から入り口方面を見る。『静岡県都市景観賞』銘板。『田中城本丸櫓』藤枝市指定有形文化財(平成5年4月指定)○構造  木造・2階建て銅板葺○規模  桁行3間・梁間2間(京間・46.57m2)この櫓は、もと田中城の本丸にあり、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていたといわれてます。本丸の南東隅の石垣上に「御亭」と呼ばれる2階建ての建物のあったことが記録にみえ、これに該当するもののようです。明治維新によって、田中城には高橋伊勢守(泥舟)が入りました。村上氏はその配下にあり、しかも泥舟の4男を養子とした関係で、明治3年この櫓の払い下げを受け、移築して住宅としました。また、泥舟はこの建物を「光風霽月楼」と名付け扁額を掲げています。屋根はもと柿葺であったようです。田中城より移築した建築物の中で、昔から最も著名な建物です。」『長楽寺村郷蔵』。「郷蔵とは、年貢米や飢饉に備えた非常(救済貸付)米を保存するための蔵で、江戸時代には村ことに置かれていました。村役人が管理しており、夜間は畳敷の小部屋に2人1組で泊まりこみ、夜番をしました。長楽寺村の郷蔵は、明治10年頃に中西家に払い下げられました。この時、郷蔵の半分を切りとり移築したものといわれ、本来は現状の倍の大きさであったとみられます。長楽寺村郷蔵は、市内に現存する唯一の郷蔵であり、貴重な建築物です。また、建替した時の年月と村役人(庄屋)の名が柱に書き付けられています。 「天保十四卯歳九月建替 長楽寺村 庄屋 恵助 (1843年)           同断      八郎右衛門」『中間部屋・厩(うまや)』。『間取り図』。「古くから、大洲村の大塚家にある長屋門は田中城内より移されたといわれてぎましたが、調査の結果、長屋門に付設された納屋がそれだと分かりました。仲間部屋と厩とを1棟に仕立てた建物で、手前右側の鬼瓦には、城主・本多家の家紋(立葵紋)が刻まれていました。また、解体にあたって、「安政六年」(1859年)と書かれた板材が見出されており、建築年代もその頃と推定されます。」『仲間部屋(ちゅうげんべや)』。『納屋』。これは仲間部屋(ちゅうげん・べや)の横にあった『厩(うまや)』。これは木造平屋瓦葺きの長屋に付属していたもので、この長屋の鬼瓦には享保15(1730)年から田中城主を務めた本多家の家紋である「立葵(たちあおい)紋」が刻まれていたと云う。 ・・・​つづく​・・・ 2019.06.03 コメント(2)
  • 駿州 興国寺城跡へ ​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​この日、5月22日(水)は『旧東海道を歩く 見付~浜松~新居宿』に向けて旅友のSさんの愛車で向かう。今まではJR東海道線で早朝出発し、日帰りで歩いてきたが既に静岡県の天竜川手前まで辿り着いているので、距離的、時間的に日帰りでは限界がありこの日は浜松駅近くのホテルまで、費用削減、訪ねて居ない、訪ね忘れた場所を巡る為に一般道で移動し、浜松駅近くの格安ホテルに宿泊し、早朝にJR東海道線で見付(磐田駅)まで戻り、見付~浜松を歩く事としたのであった。茅ヶ崎のSさん宅を7:30に出発し国道1号線を西に向けて進む。ここのみ有料の西湘バイパスを利用。この日は富士山の姿は見えなかった。箱根新道を登る。箱根旧街道の下・石畳橋を潜る。山中城の横を走る。三島スカイウォークが右手に。そしてこの日は浜松までの移動日であるため、今までの旧東海道歩きでは訪ねなかった静岡県にある『続100名城』跡を訪ねながら進むことことしたのであった。この日の最初に向かったのが『駿州 興国寺城跡』。沼津市内の国道1号線を進む。 沼津市西椎路交差点を右折し、県道22号線(三島富士線)に向かう。突き当りを左折し、県道22号線を西に進む。根古屋交差点の手前を右折し、興国寺城駐車場に向かう。入り口には赤い文字で『興国寺城』と書かれた石碑が。駐車城前には「続日本100名城 駿州興国寺城」と書かれた幟が立っていた。興国寺城跡案内図。興国寺城(こうこくじじょう)は、静岡県沼津市根古屋(駿河国駿東郡阿野荘)にあった日本の城(平山城)。城跡は国の史跡に指定されている。 連郭式平山城で、根小屋城、杜若城、久窪城、深田山城、高国寺城とも呼ばれている。興国寺城敷地内には穂見神社が存在する。詳細図。興国寺城は、北から北曲輪、本丸、二の丸、三の丸と呼ばれる平場が直線に造られ、東側には清水曲輪と呼ばれる曲輪(城の中に造られる平場)が配されている。静岡県東部を代表する山城で、約113,000平方メートルの面積をもつ。 本丸の背後には、天守台と伝えられる高台が。       【http://rekishi.tokyo/rupo_siduoka/numadu/20131123_2.html】より車を降り駐車場前の大手道を進む。ここは、東海道に続く竹田道と根本街道が交差する交通の要所でもあり、もともとは興国寺という寺院があったようだが、これを鳥谷に移転させ、その跡に築城したのだと。興国寺城の主郭(本丸)は、一番高い所ではなく、穂見神社がある標高20mほどの場所。『興国寺城跡』説明板。「興国寺城跡は愛鷹山の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根上に立地しており、山の根を通る根方道と浮島沼を横断して千本浜へ至る江道・竹田道との分岐点にあたり、かつては伊豆・甲斐を結ぶ交通の要衝であった。城郭の遺構をよく残しているのは古城と呼ばれるこの地域で、浮島沼と谷戸に三方を囲まれ、深田足入と呼ばれる天然の泥田堀に守られていた。古城は土塁と空堀によって区切られた本丸、二ノ丸、三ノ丸の3曲輪から成る主郭部と大空堀の北側に付属する外曲輪によって構成されている。本丸北側土塁は一段高く築かれ、中央部の南面には石垣が積まれ、天守台と呼ばれる平坦部になっており、発掘調査によって2棟の建物址が検出され、礎石が残されている。西端も狭い平坦部が設けられ、西櫓台と呼ばれている。本丸は四方を土塁によって囲まれ、南は空堀で区切られていたが、現在南側土塁は崩され、空堀も埋められているが、ほぼ旧状をしのぶことができる。この部分に入口が設けられており、土橋また木橋があったと推定される。本丸の東南には土塁上に平坦部が設けられ、石火矢代と呼ばれていた。ここからは本丸土塁の裾を通って大空堀に抜ける小道が残されている。二ノ丸は土塁がほとんど崩されており、三ノ丸との境界がはっきりしないが、かつては土塁によって囲まれ、空堀によって区切られていた。南側土塁中央に入口があり升形が設けられていた。三ノ丸は南部を県道が横断し、宅地となっているが、南・東の土塁は部分的に残され、ほぼその範囲を知ることができる。かつては東南隅に大手口の虎口が設けられており、西北隅にも入口が設けられていた。周囲の深田足入と呼ばれた泥田堀はほとんどうめられているが、ところどころに小さな池や沼として残され、その思かげをしのぶことができる。」本丸、二ノ丸、三ノ丸の周囲は水堀が巡らされていた。戦国期には東側の低地は『浮島沼(蓮池)』だったようで、その水を南や西まで引き込んでいたと。『国指定史跡 興国寺城跡(こうこくじじょうあと)』「興国寺城は、戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城であり、彼の旗揚げの城としても有名な城です。早雲は備中荏原荘(現岡山県井原市)の『北越城』に生まれはじめ伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)と称し、駿河守護今川義忠(いまがわよしただ)の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績によりこの城を与えられ、その後伊豆国を治めていた堀越公方(ほりごえくぼう)の内紛に乗じて足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城(にらやまじょう)に移り、戦国大名へと成長しました。その後、興国寺城は、駿河・甲斐・伊豆の境目に位置していたために、今川・武田・後北条氏の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わりました。天文年間に今川義元が小規模な構造の城であった興国寺城を普請し、城地を拡大しました。永禄年間には駿河に侵入した後北条氏の城となり、武田信玄の攻撃を退けました。元亀年間の武田・後北条の同盟成立以降は武田方の城となり、武田一門穴山梅雪(あなやまばいせつ)の持城となりました。天正十年(一五八二)に武田勝頼が滅亡した後、城主の曽根下野守正清(そねしもつけのかみまさきよ)が開城し、徳川方の城となり家康の関東移封後は豊臣秀吉の武将、中村一氏(なかむらかずうじ)の家臣河毛重次(かわげしげつぐ)が城主となりました。関ヶ原の合戦後には、三河三奉行の一人で「どちへんなしの三郎兵衛」と称された、天野三郎兵衛康景(あまのさぶろうびょうえやすかげ)が城主となりましたが、康景の逐電により廃城となりました。歴代の城主および城代は【今川氏時代】伊勢宗瑞(北条早雲)、秋山三郎左衛門尉【北条氏時代】垪和氏続(永禄12年正月?~元亀3年正月)【武田氏時代】保坂掃部、向井正重、曽根昌世【徳川氏時代】牧野康成、松平清宗、川毛重次、天野康景」『興国寺城 想像復元図』           【https://75330369.at.webry.info/201711/article_3.html】より『初代城主 北条早雲碑』。興国寺城は、根古屋と青野の境にある、篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれている。この城は、戦国時代に関東一円を支配した北条氏の祖である伊勢新九郎盛時(北条早雲)の旗揚げの城として名高い城である。北条早雲は初め伊勢新九郎盛時と称し、室町幕府将軍の申次集を務めたが、駿河の守護今川氏とは、姉北川殿が今川義忠の正室というつながりがあった。文明8年(1476年)義忠が急死すると、その後の家督争いで甥の今川氏親を助けた功により、長享2年(1488年)頃、富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となったとされる と。『早雲の足跡』。北条早雲、生誕の地と言われる岡山・高越城で伊勢盛定の次男として生まれ、青年になり京に出仕するまでこの地で過ごした。その後、駿河守護・今川家の家督争いを鎮めた功績により、東駿河の領地と共に与えられた興国寺城。 その後、五代百年におよぶ小田原北条氏の基礎を作った早雲の、戦国大名としての第一歩を踏み出した城がこの興国寺城であり、早雲旗揚げの城と言われている。海上に突き出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地と言われた長浜城址も沼津市にある。そして堀越御所を攻め落とした早雲が築き生涯の居城としたのが韮山城。そして小田原城へ。       【http://hojosoun.com/wp-content/uploads/2018/04/sokuseki.jpg】より『初代城主 北条早雲碑』の向かって左には徳川時代の『興国寺城主 天野康景碑』が。『天野三郎兵衛康景(あまのさぶろうびょうえやすかげ)』「天野三郎兵衛康景は元の名を景能(かげよし)といい、天文(てんぶん)六年(一五三七)三河国(みかわのくに)に生まれ、徳川家康(とくがわいえやす)に仕えました。岡崎三奉行(おかざきさんぶぎょう)の一人に任ぜられ、「彼是偏無(どちへんな)しの三郎兵衛(さぶろべい)」と評される公平な人物でした。後に家康の「康」の字を拝領(はいりょう)し康景と称し、慶長(けいちょう)六年(一六〇一)関ヶ原(せきがはら)の合戦後一万石を与えられ、興国寺城主となりました。伝えられるところでは、慶長十二年(一六〇七)、家来の足軽(あしがる)が城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が起きました。これが天領(てんりょう)の農民であったことから、康景と代官井出志摩守正次(だいかんいでしまのかみまさつぐ)の争いになりました。家康の側近本田上野介正純(そっきんほんだこうずけのすけまさずみ)は康景に足軽を差し出すよう勧めましたが、康景は足軽をかばって城を棄(す)て、行方(ゆくえ)をくらましてしまいました。このため康景は改易(かいえき)になり、興国寺城は廃城となりました。その後、康景は慶長十八年(一六一三)、相模国沼田村(さがみのくにぬまたむら)(神奈川県南足柄市(みなみあしがらし)沼田)で没しました。墓は沼田の西念寺(さいねんじ)にあります。」『穂見神社』。穂見神社『扁額』。『根古屋高尾山穂見神社の由来』。興国寺城跡本丸北側の天守台下には穂見神社があり札には「安政四歳巳正月奉勧請高尾大明神」と書かれている。伝聞によると、安政4年巳正月に施主15人が山梨県高尾の本社「高尾山穂見神社」から分祀したとされている。安政の大地震が発生し、大津波のため塩害により凶作が続き五穀豊穣を願い、農業神である「高尾山穂見神社」を建立したとされる。『根古屋の力石』。重さ110kgの丸石で明治~昭和初期頃まで村人達が肩まで担げるか力較べに興じたのだと。『本丸』跡は発掘調査後に埋め戻され広場になっていた。『伝天守台』に向けて細い坂道を登る。正面に『伝天守台』の野面積みの石垣が。一面草に覆われ城跡とは判りにくかったが、この石垣を見て城跡そして天守台跡と納得したのであった。規模は天場の長さ約24メートル、下端の長さ約13メートル、高さ4メートル(推定)と。『天守台』跡。2棟の礎石建物跡が残されていたが、発掘調査では瓦等が発見されなかったことから、一般的な城のイメージにある「天守閣」ではなかったと考えられるが、ここから城の南を通る根方街道やさらに南の東海道を監視していたと思われると。『伝天守台』の後ろには深い空堀が。空堀の規模:幅約13メートル、本丸側の深さ7メートル、二の丸側の深さ3メートル と。『伝天守台』からは原の市街と駿河湾の景色を楽しむことができた。下の屋根は穂見神社。自然の姿を上手く利用して空堀、土塁を作ったのであろう。空堀の下に降りて『伝天守台』を下から見上げたかったが・・・。この空堀の北には東海道新幹線が走っていた。『伝天守台』を下る。この城跡は「ぬまづの宝100選」に選ばれており、平成29年4月に日本城郭協会が選ぶ「続日本百名城」に選定されている。スタンプを頂いて来ました。スタンプの右側には『初代城主 北条早雲碑』が。 2019.06.02 コメント(0)

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